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2013年9月

2013年9月28日 (土)

『看護の力』

32828771 テレビ番組では医療ドラマが流行っているようだが、現実の医療・看護の世界は複雑怪奇の人間模様があって、むしろ魑魅魍魎の世界といってよいだろう。医師は都会育ちのいいとこの坊ちゃん・嬢ちゃんであり、医師の中には「貧乏は病気の一種」と考える者までいるのである(確かにこの医師は病んでいる)。一般人が医学部教授会を見学しようものなら、その異様さに殆どの人は卒倒するであろう。一つの総合病院でも、鋭敏な人ならば、上は院長から下は掃除婦に至るまで、その堅固なヒエラルキーに幻惑することだろう。日本の医療は国民皆保険制度によって国民の生命と健康が首の皮一枚で守られているが、それは国民の要求と医療労働者の運動によるものであって、医師会自体は、時の政権政党に脆くも宗主替えすることに見られるように、自分たちの利益を保全するための圧力団体に過ぎない。TPP参加で医療の世界が解禁になれば、医療はカネなり、ということがはっきりとする。そんな医療もこんな医療も間違っているのは言うまでもない。
 ところで、看護師の二大業務とは、「診療の補助」と「療養上の世話」である。医療技術が進展するに伴って、看護師の意識はますます分裂しようとしている。この新書にあるような本来的な看護は見捨てられようとしているのである。患者に寄り添う看護ではなく、医師の片腕として重宝がられ、下請け化されようとしている。専門看護師、特定看護師などである。そんなことなら医師をどんどん増やしたらいいのにと思うのが普通であるが、医師の社会的地位が弁護士のように失墜してしまう危険性があるため(既にかなり失墜しているし、国民のための医療などという看板は衰滅しつつある)、医師会は猛烈に反対している。しかしながら、機械化された医療、システマティックな看護、繁忙な雑務に追われ、階層的な職場の人間関係の中でのストレスを抱えながらの業務を行っているというのが一般的な現実である。「看護の力」とは、注射や薬のような外部からの力ではなく、その人に本来備わっている治る力を上手に引き出すことであると著者は述べている(p48)。原点を振り返ることは、あらゆる職種でも必要なことであるが、医師ばかりに焦点が行っている医療ドラマが蔓延っている一方、真面目な看護師ほど消耗しており、慢性的な看護師不足が相変わらず進行しているのである。また、この本には反戦や医療労働者としての自覚の大切さ、看護への振り返り、介護との連携など、サラッと触れられているが、重要な提起が数多く内包されている。看護師がいつまでも白いナースキャップを被っている「白衣の天使」のイメージを抱いているばかりでは、大変な勘違いの元になるのである。

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2013年9月26日 (木)

抵抗か開発か

20130925101845  平日の休日。朝寝して、体調悪く通院途中で仰ぎ見た秋の空。陽気は良いようですが・・・。それから帰宅して口にカレーをかき込んで、しょぼしょぼと読書に耽り、夕方になると田畑の様子見に出向く平凡な一日を過ごす。政治の話題はすまい。どうもこのところ、不審な動向が見られる。ネットを使用すること自体が捕捉されているようなものだから、何食わぬ生活をするのがいいらしい。

20130925174532  ところで、肝心な『新・現代アフリカ入門』の感想を放置しているので、今回はこの本について記したい。前回の『経済大陸アフリカ』と併読すると現代アフリカについての理解が一層深まる。全く相反する立場からの新書同士だからである。本書の狙いは、「南北関係の中のアフリカの立ち位置を描写し、その課題、その展望を明らかにしてみること」(p.ⅴ)である。メインは、副題に「人々が変える大陸」とあり、終章の「(アフリカの)人々が変えるアフリカ」である。現実のアフリカは、「資源のアフリカ」でもあり、「消費財市場のアフリカ」でもある。その二つを媒介するのはPOBビジネスであると思う。グローバリゼーションの中で、どこまでも収奪されるアフリカであることは間違いない。主権回復のために、「考え、戦う市民を一人でも多く作っていくこと」(p246)という主張は、怒りを抑えた著者のぎりぎりの抵抗でもあるように思われたのである。ただ、学者が書いた本にしては、情緒的で記述が雑であることは否めない。尤も、平野氏のような脳天気な経済開発主義者よりはマシと思われるが、アマゾンの書評では後者は高評価である。人の痛みが分からない日本人が増えたということである。

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2013年9月20日 (金)

弱いのに強がる右翼政治屋

20130920184633  昨夜は、風邪と疲労のために満月を見ずにさっさと就寝してしまったので、今夜は嫁はんの「十六夜の月がきれいだよ」との言葉に、表に出てしばし観察。このところは快晴の日々が続くが、体調は最悪。咳と鼻水が頻繁で、体力を益々消耗している。田んぼの周囲は稲刈りが開始されているが、田植えが遅かったうちの田んぼは来週以降になる予定。だいぶ倒伏して手間がかかりそうである。

 安倍首相については誤解があるようだ。この人の思想は、基本、ネトウヨ並みの右翼思想であって、父親でなく、A級戦犯である祖父の影響が強い。軟弱な右翼政治屋という規定が相応しい。とは言え、軟弱であるが故に、周囲から使嗾されて、仮想敵国への憎悪から軍事強化、秘密法案の成立から改憲、戦争への流れが形成されるのが怖ろしい。首相として自己の確信を自分の言葉で開陳することができない。ほとんど文書を朗読している。時々眼を上げるが、人(相手)を見ていない。虚ろである。満面の笑みがない。討論ができない。意表を衝かれると動揺して早口になる。呵責もなく平気で嘘をつく。左翼・リベラリストが、こうした首相のあり様に無能というレッテルを貼って溜飲を下げるというのは、知識人・エリートとしてのプライドを保つだけだとしたら何の意味もない、と思っている。重要なことは、ネトウヨ並みの彼を利用する政・財界・スポーツ界・マスコミ界などの重鎮右翼である。戦争に突入する前段階は、「狂騒と絶叫」がある、と悔恨した教育者がいる。現時は、富士山の八合目まで登ったというべきか。新年に訪れた、場末の温泉湯上り室で、週刊新潮の記事が眼に留まった。そこには、芥川賞作家の田中慎弥氏の安倍評が記載されていた。曰く、「名門政治家の家系に生まれた自負とプレッシャーがのしかかっているでしょう。弱いのに強く見せざるをえないタカ、勇ましいことを口にしても、ピーピーひなどりみたいに鳴いているようにしか聞こえない。ひなどりのままでいることを許されない安倍さんを危うい、怖い、と正直、感じます」とあった。弱いのに強がる右翼政治屋というのが真相だろう。こういう人物は取り巻きに影響されやすい。周囲に暗躍する「有識者」や右翼に注視するべき時だろう。原発事故と汚染水問題が安倍内閣のアキレス腱であるということを決して忘れてはならないし、これ以上戦争国家化へのいかなる策動も許してはならないのである。

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2013年9月14日 (土)

反動の局地化する日本

32911711  次に目を通したのがこの本である。実は、このところ、体調が非常に悪い。夏バテが加わり、鼻風邪がひどく、咳と鼻水が流れて醜悪な様相と思われる。家に閉じこもりがちで、田畑のことが心配される。
 
  「私が安全と確信するから原発(汚染水)問題は何も問題ありません」という一国の首相の強弁は、論理性のカケラもないし、安全の言質にもなっていない。これでは、五輪開催をカネで誘導したと非難されても仕方ない。そして、実際に招致費に何百億も投資され、皇族まで持ち出して、お涙頂戴のヤラセドラマを作り上げるのは、あの広告会社の常套手段である。日本も終わりだな、とハッキリと宣言できる。ここで重要なのは知識人エリートの問題である。「歴史認識は専門家に任せて」と歴史問題から逃げた首相に対し、歴史研究者の即座の反論と声明がなされないことでもあり、右翼思想の塊である人間を祭り上げていること自体を新聞等のマスコミや論文などで、完膚なきまでに論理批判していないことである。官邸周辺を固める「有識者」どもは、いつも似たような醜悪な面々であり、権力やカネに飢えた豚どもである(豚さん、ご免なさい。豚さんは意外にも清潔で清廉なのである)。いずれにしても、世論を喚起すべき学者知識人は既に腐敗し、転向したことが問題なのである。これは宗教人でも同様である。しかしながら、こんなことは30年以上前から予想されたことである。日本人の目つきや顔付きが変わっていることにお気付きだろうか。教育が全てと思うのであるが、息子の学校教育を傍観すると疑問だらけである。一斉教育と指導の満載であり、画一教育そのものである。その割には消費社会の最たる情報端末機器の持込みには寛容である。おちこぼれを救い上げる体制もない(単線教育)。親がかりの部活や国粋主義的な道徳教育の推進と挙げたらキリがない。教師もまた、その犠牲者でもあるが、中には先導的になっている反動教師・校長もいる。体育会系教師がのさばって始末が悪い。政府・文部省がガンであるのは言うまでもなく、この国の支配層は右翼思想になりつつある。帝大に入学した親戚の息子の本棚を閲覧する機会があったが、そこにはなんとナショナリズムを教唆する反韓本があったのである。科学を標榜する学部生にも拘らずである。そんな次第で、このアフリカ本の内容については次回に。

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2013年9月12日 (木)

グローバル下のアフリカ

32869103  アフリカについての関心は、元々、農業の視点とアフリカ人との親交体験に由来する。その学びは遅々として進まず、アマチュアの領域を脱していない。しかし、機会があればその地を訪問したいと考えているが、一体、いつのことになることやら・・・。
 そんな訳で、ふと手にした本がこれ著者によれば、2003年の資源高騰により、サブサハラ・アフリカは様相が一変していると言う。キーワードは「アフリカのグローバリゼーション」である。中国のアフリカ進出がその契機ということで、第一章がその攻勢のあり様に割かれている。しかしながら、著者はそのことを否定的に捉えていないことがおもしろい。また、開発の政治経済学を評価しながらも、今はむしろ、企業活動に注目するべきだという主張もおもしろい。「アフリカ経済の主役はグローバル企業になった」(p219)と今世紀のアフリカ経済を展望している。アフリカ人の携帯所有率が6割以上になっている事実にも象徴されている。グローバル化は、「所得不均等化」すなわち貧富の拡大を招来しているが、それはアフリカだけでない、と述べて、国民経済をその流れの中にいかに位置づけていくのかという(21世紀におけるナショナリズムの課題の)回答が「市民社会」というのでは心許ない(p260)。ちなみに、著者は、日本企業がグローバル企業として「多国籍化にたえられる理念」(p278)を持つようにアドバイスしている。アフリカとの関係において、「相互利益」を実現するグローバルプレイヤーとなることの必要を訴えて結論としている。全般的に図表を駆使していて論旨明解である。また、その論述範囲もひろく、パースペクティブにアフリカを理解したような気になる。ビジネスマンにとっては、この本は、その活動のために「裨益」するものとなるだろう。更に、内容の豊富さと比較すると圧倒的な廉価本である。しかしながら、肝心なアフリカ人側からの主張がまるで見えてこないのが最大の短所であり、それは他の書誌に拠るしかない。加えて、アフリカ農業についても不明であることも分かった。

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2013年9月10日 (火)

祝!2020年東京五輪開催決定

201309081040481  いやぁ、めでたい、めでたい。ようやく東京にオリンピックを招致できたのは、「撃ちてし止まん」の大和魂なれば、日本民族はどのようなことも可能なのだ。神風は吹くのだ。めでたいことである。国一丸となってこのような快挙を成し遂げたことは、日本民族の優秀なる所以である。めでたい。いえ、これはね、王侯・貴族のIOC委員を接待と贈賄で篭絡するという日本のお家芸でもあるんですよ。カネとコネで誘致するなんて簡単なことですよ。長野冬季五輪でもやったことであるし。その時のやり方を踏襲するだけのこと。プレゼンテーションは、カネに任せて某広告会社に丸投げしたんですよ。そうすりゃ、子弟をコネ入社させることもできるし。いやぁ、めでたい、めでたい。でもね、それだけじゃないんですよ。あやつらに嘘をつくことなんですよ。トーキョーが安全?安全な筈がある訳ないじゃないですか。そうです、一国の首相に強弁させるんですよ、おめでたい人ですから。ところがなんと、汚染水問題で、「状況はコントロールされており、東京に決してダメージは与えない」、「影響は・・・完全にブロックされている。健康問題については今までも現在も将来も全く問題ない」と国際公約してくれたんだから。いやいや、こんな大言壮語には私も呆れたくらいですよ。福島や東北復興を願う人たちが聞いたら、怒髪天を衝く発言でしょうけれども、こんなに大嘘をつくとは思わなかったなぁ。でもまぁ、これも招致勝因になったのだから、許せますよ。いやぁ、めでたいの一言ですよ。でもまあ、これで景気浮揚の起爆剤になるし、首相の掲げるアベコベミクスの経済効果にもなるんじゃないですかぁ。あの人の場合、改憲、核武装、戦争国家化ですが、日本全体にとっては、夜郎自大の政治・経済という流れができていいんじゃないですか。庶民の暮らし?そんな問題は些少なこと。いやぁ、めでたい、めでたい。政・官・財・民と皇族というハニカム構造の一体協力で成し遂げた快挙である。ちょっと一蓮托生で浮かれすぎですかね。でもね、これから少なくとも七年間は、自分たちの掌中にあるんだから、祝ってもいいじゃないですか。せーの、万歳、万歳、万歳!

 こんな狂乱の「瑞穂の国」、日本の片隅にある、わが水田は、半分ほど稲が倒伏してしまったとさ。おしまい。

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