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2013年8月11日 (日)

「礎」論と「犬死」論

20130807110919  枝葉をイナゴが把持しているが、ここはほって置くしかない。そろそろ出穂を開始するのでキラキラテープを張り巡らしておかなければならない。しかし、この酷暑では多少凌ぎやすい夕方を待つより他はない。・・・。という訳で、作業はめでたくも終了する。草取りも兼ねていて、水田の中をドシドシ入り込み、かなり根や穂軸にストレスをかけ過ぎたかな、と心配する。後は出穂を見守るより他はない。

32468397  68回目の敗戦記念日がやってくる。これを「終戦」記念日と呼称するのは欺瞞でしかない。第一、天皇が玉音放送した日が本当の「終戦」記念日なのかという疑念もある。そして、泥沼の日中戦争と戦線膠着の打開を狙って太平洋戦争に突入した日本帝国主義であったが、兵役に送られて死んだ兵士たちは何の意味があったのかという疑問もあって、この本を読んでみた。タイトルに惹かれたこともある。富国強兵、産業報国など明治政府によって近代化はなされたが、敗戦を要約すれば、明治維新と政府が構築した天皇制国家体制の結果である、と言ったら間違いだろうか。五族協和、満州事変、支那事変、大東亜戦争などの言葉は、侵略行為の裏返しであるにも拘らず、日本の右翼は侵略したことを否定する。だけでなく、子どもの頃に聞いた、冠婚葬祭などでの大人たちの会話では、「あれは植民地解放のためだった」とか、「みんな大変だったんだ」とか言い訳して平然としていた。戦後の日本の平和と繁栄は戦没者たちの礎があったればこそという「礎」論があるが、著者は「『礎』論は死者のために作られた論理ではなく、むしろ生者のためのものであった」と喝破している(p209)。生者の唱導する「礎」論には、「うしろめたさ」(p276)があると言う(「礎」論の対極は「犬死」論である)。国家は靖国神社に「英霊」を祭ることで戦死の意義付けをしようとするが、肝心のその戦争は、天皇制国家ための侵略戦争であり、生命を奪うだけではなく、戦死の意味までも国家が奪うという非人道性に気が付いていない(続く)。

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