医療・介護とのつき合い方
幻冬舎の本については、私的にはとても偏見を抱懐している。タイトルが人々の好奇を刺激するという観点から割り振られるからでもあるが、幻冬舎は、大書店・大手取次優先=中小書店無視という配本システムだからでもある。しかしながら、出版不況の中での生き残り策として止むを得ないことなのかもしれない。そういう事情があるにせよ、現在ベストセラーであり、もう一つの関心分野でもあって、著者が長野県人ということもあり、信濃毎日新聞で紹介されたこともあって、珍しく購入してしまったのである。
人は生れたら死ぬ、という自然の摂理を、人々は余りにも無視している。生と健康に執着し、無意識にも死を忌避する。そのために、筆者はサブタイトルにあるように、「自然死」を推奨する。「年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に『死んでみせること』(=看取らせること)です」(p7)と。死に際の苦しみに、医療の虐待だけでなく、介護の拷問もあることを知っておかなければならない(p53)。死に際さえも自由にしてくれない医療と介護とは、一体何なのだろうか。「そっとしておく思いやりもある」(p80)のである。年相応という言葉はそのために存在する。「人は生きてきたように死ぬ」(p188)のである。しかしながら、蛮勇を決してこのように主張するためには、医療(医者)の序列から脱落した者でなければならないことが悲しい。このことは医療界のみならず、全ての世界において該当する。
血液の癌で苦しむ母の付き添いをしたことがあるが、個室に閉じ込められ、チューブに繋がれながら、病魔の苦悶と床ずれに身動きする母を静かに見守るしかなかった。誰一人として時間外に訪れる医療関係者はいなかった。見放した、死にかけの患者には医療は関心がないのである。いい医者も確かにいる。しかし、それは少数であるというのがわが実感である。医者は、特別な人生勉強した訳でもないし、人生経験もした訳でもない。死に際は各々自分自身で見つけるべきなのである。それが医療と介護とのつきあい方である。
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