深沢文学の真髄
「外伝」とは「本伝からもれた伝記や逸話」の謂いであるらしい(岩波国語辞典)。では本伝とは何かと繰ると、該当する言葉は採録されていない。そこでやむなく、久しぶりに紙とインクの香りのする広辞苑(三版)を調べると、「主となる伝記」とある。であるからこの著作は、元担当編集者によって深沢七郎に纏わる逸話を披露して、深沢文学を考察するものなのだろう。著者によれば、「深沢は文学と音楽を往還し、その両方に一流として立つことが出来た稀有な作家」(p231)であり、「飢餓ぎりぎりを生きていく庶民を骨太に描き続けた眼差しが『深沢文学』の真骨頂」(p255)である。深沢七郎と言えば、『楢山節考』と『風流夢譚』(嶋中事件、1961年)である。彼は、強欲な人間本性と日本人の反近代性を暴露した一種の抵抗文学であると思う。世間は何も変わっていない、だから『生きているのはひまつぶし』なのである。そのような深沢の本質を「淋しいって痛快なんだ」とサブタイトルで表現することが的を得ているだろうか。西郷隆盛の遺訓に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困る者なり」とあるが、深沢はそれすらも突き抜けているのである。だから、三島由紀夫は畏怖したのである。また、銅像を建てて晩節を汚した佐久総合病院の院長だった若月俊一とも、かれは袂を分かつ理由にもなったのである。福島原発事故で、一体だれが塀の中に入っているのか。だれもいない。何も変わっていない。何も変わろうとしていない。諸外国なら暴動が起きてもおかしくはない。そのような明治以降の日本人の「近代的」あり様を、深沢は揶揄しているに違いない。
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