農村青年たちの怒り
農村青年社事件は、狭義の定義では、1935年に検挙者300名を超えた昭和最大のアナキスト弾圧事件のことである。この事件が、思想検事や特高刑事たちの功名心からでたフレームアップ事件であることは、この本の中で余すことなく明らかにされていると思うが、問題は、「マフノの末裔」と称される彼らの歴史上の意義である。単なる「飛んで火に入る夏の虫」(p180)であり、権力側の野望に巧妙に利用された事件に過ぎない(p183)のか否かである。著者によれば、事実、この事件の本質は国家権力によって「格好の標的として利用された」(p299)と結論するのであるが、その一方、彼らの「農村改革運動は、革命運動としてではなく、人間の生き方としての訴えをもっていた」として、単に「歴史上の抵抗」(p300~301)運動として切り縮められてしまっているのである。だから、彼らの「自給自足」「自主自治」の理想は、どう評価されるのかは、サブタイトルの「昭和アナキストの見た幻」の一言で集約されている。確かにこの時代は、ファシズムが農本主義を手綱にしながら、農業恐慌に喘ぐ村落共同体をも体制に強行に組み込んでゆくものであった。同時に、共産党や労動・小作争議を弾圧する事件が頻繁で、壊滅してゆく過程であった。それがアナキスト運動にまで波及していたのである。理想がなければ運動や思想は根絶やしになる。彼らの思想的・組織的脆弱さは彼らの歴史的意義を低めてはいない。だから、彼らの試みを、「個人的信条としての思想はありうる、つまり自立する個の支えになる理論が含まれている」(p318)という評価では事の真相を明らかにしてはいない。なぜならば、自立は真空の中で形成されるものではないし、体制の唯物論的基盤は一向に改変していないし、そのような見解は逆に、彼らの企図が権力との共犯関係を疑う素地を醸成してしまうからである。二重の意味でのフレームアップとまで考え及んでしまう。南澤袈裟松はこう答えていたという。「君、あの時代の農村は本当にひどい状態だった。志のある青年なら誰もが社会改革に起ちあがらなければと思った時代だった」(p253)と。時代に抗して闘った彼らの所業を個人的な信念に留めてはならないのである。歴史博物館の中に閉じ込めてはならないのである。ちなみに、彼らの仲間の中には、自分の出身高校の先輩も名を連ねている。
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