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2011年10月11日 (火)

キリスト教の出発点

32611836  『聞いてください』というタイトルからして、とても謙虚な姿勢が感じられる。著者は、日本基督教団須坂教会員の一人で、1998年に胆嚢癌で天に召された「須坂のレイチェルカーソン」と称される人である。今次の原発事故を予見して、反原発を訴え続けた市井の人である。このような人を長野で育んだことを長野県人として誇りに思う。原発立地がないこの県で、人知れず運動を継続してしていた人の大変さは知る人ぞ知る、と言わなければならない。会員の高齢化で、坂田さん等が進めた「脱原発北信濃ネットワーク」が九月末で解散した、ということを「信濃毎日新聞」が10月10日の記事で報じている。これ程の事態であっても、まだまだ人々は被害者意識に留まっているのである。被曝した福島県も被害者意識のままと言ってもよい。加害者として意識化されるとき初めて原発の反人類性だけでなく、反自然性が意識されるのである、と言わなければならない。換言すれば、国・政府に何も恃むことはないと「断念」した時初めて、人は己の罪を悔いるとなるだろう。坂田さんは孫の心配から始まったのであるが、それが「命を大切にする社会」(p86)に昇華されている。坂田さんの教会復帰のキッカケは戦責告白でした。彼女は最も敬虔なクリスチャンと言わなければならない。全国の市民・住民運動のほとんどはキリスト教徒が端緒を担っている。しかし、ほとんどの牧師・神父を初め、クリスチャンはその「ささやかな声」を無視している。守るべきものもあるのだろう。しかしながら、一介のキリスト教徒をしても神を恃み、創造するべきこともあることを知らなければならない。なぜならば、いかなる奉仕よりも罪の自覚がキリスト教徒の出発点であるからである。

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