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2011年6月

2011年6月30日 (木)

見る、視る、観る

20110623075216  軒下に、母親猫(交通事故死)の遺児が居付きました。好奇心旺盛で人懐こい黒の子猫は、いつの間にか行方不明ですが、茶とぶちの二匹の子猫は盛んに動き回って、近隣の子どもも大喜びです。とにかく、ちっちゃくて丸くて可愛い野良猫です。小鰯を手にして近づくとニャーニャーとせびってくる。食い意地がはっているが、生きるためにはこの位でなくては生存できないだろう。どれくらい生き延びるか見守って生きたい。

31415291_2  いよいよ本丸のこの一冊。故福岡氏のスタンスは、人知否定と反科学である。その自然農法は、要約すれば、米麦(連続)不耕起直播(=冬蒔き緑肥草生米麦混播)である。また、その四大原則は不耕起、無肥料、無農薬、無除草である。彼の自然農法は人気があり、国内よりは国際的評価の方が高い。例の粘土団子法は、世界的に進行している砂漠の緑化に威力を発揮しているということらしい。しかし、高温多湿の日本の気候において、無除草というのはあり得ないと思う。収穫物を得んとすれば、農薬を投下しての除草は論外であるが、人力を介しての雑草対策は必要である。最近は、田畑を前にして、作業よりは観察がほとんどの時間を要している。見る、視る、観るである。

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2011年6月16日 (木)

植え直しの一日

20110615163159  終日、水田に這いつくばっていたので足腰がガチガチで、痛い。明日からの勤務は大丈夫か(苦笑)。日の出とともに家を出て、都合、三回苗の植え直しに出向く。えらい時間を要した。こんなんやったら、いっそのこと、苗と機械植えを依頼することなく、自分で手植えした方が早いのではないか、とも思う。ましてや、我が水田は勾配がややあって、昨年の稲株が隅に溜まって植えた苗を被ってしまうこともあるために、また、減農薬(除草剤一回)のために田に茂る雑草(写真参照。我が水田だけが畦草が目立つのである)を掬い取る手間がかかって進捗しない。今年の苗は小さい。来年からは自分でやるように着手しようと計画している。他人や農協に頼んだら、思うようにしてくれないし、実際のところ赤字なのである。安全・安心だけが担保されるだけなのである。この地区はまだ耕作放棄地が少ないが、川中島平東部は開発予定地であることもあって放棄地が多く、目を覆うような惨状の所もある。農業従事者の高齢化がいよいよ忍び寄っている気配である。ちなみに、水田は日本全土の約7パーセントを占めている。

32483595_3  『不耕起でよみがえる』の続編と言えようか。自然耕、すなわち冬期湛水+不耕起(成苗)移植栽培のススメである。自然の摂理に則る稲作農業であり、生物多様性を志向する農業である。慣行農業は必ず行き詰まる。「自然耕塾は、大自然の循環系の中で、自然との共生型農業を目指しています。しかし、いつも頭から離れないことは、飢餓の時代の到来です」(p182)とある。著者によれば、孫の世代には資源枯渇等の要因により飢餓の到来すると予言している。人々は目の前にある自然という「資源」に気が付いていない。原子力エネルギーどころの話ではないのである。

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2011年6月11日 (土)

反動の危機に備える

20110611090206  夜来の雨に濡れて、ヤマボウシの花が精気に漲っている。漸く田植が終った。育苗と機械植えだけは農協に依頼しているので、まだ農民と認定されていないようで、周囲の声掛けは少ない。終始一貫の稲作を敢行したいが、時間などの余力もなく、今のところは見様見真似、かつての両親の営農を想起しながら何とかやっている次第である。数年後までの課題である。

 いつの間にか世の中全体は大きく変化しているようではあるが、日本人の性向である事なかれ主義と事大主義は、一ミリたりとも不動のようである。大震災と原発事故は予想はしていたが(東海もしくは東関東大地震と想念していた。この十年間で七割の確率で生起するという地震学会の分析だったから)、東北とは意外だった。そう言えば、震災前に三陸沖地震が数多みられたという新聞報道を目にしたな、と後で思い起こした。『あなたの若さを殺す敵』を偶々読み進めてみたが、前著の繰り返しで、「完全なる自立」を説いている。本日は全国各地で反原発集会とデモが敢行されているが、高い放射能を平気で浴び続けている関東圏の人々の気が知れない。当地でも不安に慄いているのにも拘らず、である。このところの国会における政争や各界(特に医師会、学会、法曹界)の動向を見聞すれば、きっといい様に丸め込められるであろう、としか思えない。とりわけて橋下・大阪府議会の君が代起立条例可決は、憲法違反のファシスト行為である(コンピュータ監視法案の行方も心配である)。保守の混迷に乗ずる反動のマグマを封じ込めなければならない時期が迫っているのかも知れない。今の日本においては、信ずるに足るものが無くなってしまったことに気付いている人は少ない。信ずることに足りている人が未だに多いことではあるが。

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2011年6月 1日 (水)

「戦後」の終焉

201106011450361_2  休日なので息子の運動会(何故この時期に運動会なのか知らない)を観戦する。来年は中学生。自分が齢を重ねていることや人の成長の早さなど思い巡らしながら、年端が行かない園児の「旗拾い」を眺めつつ万感胸に迫る思いは多い。

 午後からは田んぼの水入れと他の野菜の播種。自然と折り合いをつけて過ごす日々。自然に感謝し、その脅威におののく日々。今回の東日本大震災で「戦後」は終わったのかも知れない。あるいは、再び戦後が襲来したのかもしれない。無辜の人々を含めながら、その責任の度合いは異なろうが、日本人は大罪を犯したということ。小出裕章・京都大学助教は、5月23日の参院行政監視委員会の答弁において厳かに締め括っている。「ガンジーが七つの社会的罪ということを言い、それが墓の碑文として残っている。理念なき政治。労働なき富。良心なき快楽。人格なき知識。道徳なき商業。人間性なき科学。献身なき崇拝。それぞれ噛み締めてほしいと思う」と。近代化の恩恵を負いながら自然と歴史・文化を事も無げに抹殺する日本人。これの報いがどれ程のものか気付く日本人はいるのだろうか。

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