自然をめぐって
「ゲゲゲの女房」は高視聴率に支えられて、本屋でもゲゲゲのコーナーが展開されていました。ですがドラマは、女房他が全く老けることもなく演出されていて、失望しました。終盤の演出がデタラメです。この程度の俳優であり女優でした。ストーリーが流された感じです。自然ではありません。
栽培したオクラが毎日花を咲かせ実を成らせています。白瓜もどんどん実を太らせ収穫されます。嫁さんはこの成り具合に悲鳴を上げています。オクラや白瓜の調理や食事に悩まされてウンザリしているようです。ですが私は、毎日同じものを食べることには全然飽きもしなければ苦にもなりません。自然の恵みは、ただひたすら感謝して消化するのみです(笑)。
量先生のみならず、キリスト教は信仰から自然を剥奪しているように見える。創世記1章とローマ書8章がその根拠になるのでしょう。人間と自然との存在論的差異性を強調しすぎると、人間中心主義の考えに陥ってしまうのではないか。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている(οιδαμεν γαρ οτι πασα η κτισις συστεναζει και συνωδινει αχρι του νυν)」(ローマ書8:22)とあるが、被造物の中に人間も含意されているのである。「神の似像」としての人間を強調し過ぎると、自然、自然を軽視することになる。畢竟、ブルトマンは人間を自然の庭師とまで規定している。非神話化という聖書解釈の方法論を提唱し弁証法神学を展開したブルトマンではあったが、それは、あくまでも20世紀の神学者の限界であったと言わねばなるまい。「地の支配」を人間の都合で解釈した結果が現今の状況ではないのか。自然とキリスト教については、もう少し持論を拡充したい。直ぐじゃないよ(笑)。
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