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2010年4月 3日 (土)

超越論的哲学

20100403074331  梅の花が、ほぼ満開になりました。野暮用と髪切りのために、単身サイクリングしました。時折、強い風が耳を鳴らし、皮膚にはやや肌寒い時がありますが、気持ちよく陽を浴びました。こんな陽気の中、自然を体感できない、車に乗る人が可哀相です。長野県選出の某議員が代理投票で辞職したというニュースに接して、やっぱりな、と失笑した。これは長野県の政治を象徴しています。官僚が県政を支配しています。祭り上げて恩恵に浴し、屏息して猖獗する、という県民(特に、北信)体質が垣間見えます。県民は、立身出世の官僚制が大好きです。これに比する、勇壮な諏訪御柱祭の開幕と共に、信州の春が到来しています。

31697763  難解な本は、第一に著者の立場性に瞠目するのであるが、それでも不明な場合は、第二に、本の終始に目をつけるという鉄則に従って、ここでは第二の鉄則を採用する。この本の著者によれば、人類の喫緊の課題は、戦争と環境破壊と経済的格差という三つのそれである。これらは押し並べて、資本と国家の問題に帰着する。破局を回避する目論見では、国家という障壁にぶち当たる(以上、p224~225)。サブタイトルから推測すれば、国家を超越論的に論じようということらしい。その昔、カントの『純粋理性批判』を輪読している時に、古いドイツ語辞書にしたがって、transzendental を先験的と訳していた初期の頃の恥かしい思い出が残っている。いずれにせよ、柄谷氏の試みは国家の揚棄であるので、国家(殊に、マルクスの国家観)を徹底批判している内容である(p40)。結論はカント的なものだが、いくつかの点で考えさせることがあった。一つは、「商品交換は国家に依拠する(相補的関係にある)」(p71)ということである。貨幣-消費というシステム(ある意味では、これこそ資本主義の強制力であり、労働者に意味のない労働を強制させていると言うべきだろう。消費が労働を強制させているのである)ができあがる歴史的経緯の中で、国家は益々消費税という形でその強制力を強化しているようである。それは、「プロレタリアとはむしろ(剰余価値を生み出す)消費者である」(p140)という彼のユニークな視点と関係する。現時の世界経済の行方を知る上で、重要な位置を占めているのは中国の「社会主義市場経済」である。現代の帝国主義諸国においては、基本的に過剰資本、供給過剰という状況であり、グローバル化したとは言え、特に中国市場は垂涎の的である。そして、消費経済の中で、どのように中国社会が推移するのかは注目の的である。大凡、日本社会の推移と相似すること(超消費社会、超高齢社会など、2030年頃にはその兆候や動乱)が予想されるが、それは著者流に解釈すれば、世界崩壊か、世界共和国ともいうべき事態か、ということだろうか。別の意味で、私はそうとは思っていませんが・・・。論点は他にもあるが、今日のところは、この辺で。

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