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2010年4月

2010年4月23日 (金)

介護の防波堤

31831731  どうやら自費出版のようである。ホームヘルパーは、国家資格ではなく修了資格であって、社会的には余り評価されていない。だが、高齢者や障がい者の自宅において実際的サポートする介護従事者であり、訪問(居宅)介護員とも呼ばれている。全国に約15万人が携わり、ヘルパー資格者はその内約10万人である。ヘルパーの社会的地位の低さと処遇の悪さのために、ヘルパー資格修了者は多いのに拘らず、訪問介護従事者は漸減傾向にあるらしい。そこで、在宅介護に約16年間関わった人の考えに傾聴すべく、読んでみました。全編を通じて利用者に対する愛情溢れる内容になっている。それも、「一つの考え」「私見として」(p4)と断った上で、経験から生れた教訓に満ち満ちている。老人介護の現実はどうなっているか。当事者は、「人の手を煩わすことの申し訳なさと自分自身の情けなさとが重なって、何事にも意欲をなくし生きる希望を失」い、「自分らしく」も「人間らしく」もない(p66)。著者の施設経験で「驚愕したのは、・・・車椅子に掛けたまま、何を待つでもなく、楽しみもなく、ただじいっと時間を過ごす」(p183)現実であった。寄り添う介護ではなく、仕事に追われ、流れ作業的に利用者に指示し命令する本末転倒したものであった。介護をビジネスとする人ほど、現場の介護従事者の疑念やわだかまりに気が付かない。無論、制度化された施設介護には、「団体行動の生活の厳しさ」(p190)があるのだという意見もあるだろうが、本当のところは、人間(老人、障がい者)に向き合うのが恐いのである。恐いから目前の仕事に専心して誤魔化そうとしているのである。だから、利用者とのコミュニケーションが重要と指摘されていても、声かけ(≠コミュニケーション)はしても話は表面的なものを繰り返しているばかりなのである。このことが分からない人が介護業界には多い。また、過度に関わって利用者を弄んでいる人もいる。人の間には距離も必要なのである。この本を読んで、もう一つ教示されたのは、「介護にはベテランは存在しない」(p194、140)ということである。だから、「そう簡単に介護の仕事ができるわけではない」(p196)。介護者の人間そのものが問われる仕事であるということである。そういう中で、多くの女性たちが誇りを持って奮闘している訪問介護を忘れる訳にはいかないのである。

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2010年4月21日 (水)

被害危惧種

201004211047061  桜が散り始め、梨と桃の花が広がり始めています。例年、桃の花が開く頃は、タンポポが咲き誇ります。しかし近年、ヒメオドリコソウが田畑や空き地を席巻しております。その繁殖力たるや、他の草花を凌ぐように首を出して、日光を遮って圧倒しています。これに加えて、アレチウリやブタクサやセイタカアワダチソウなどは、他の草花の成育を阻害する被害危惧種に指定されています。足元の草花は一変しています。

 政界再編というよりは、自民党は参院選挙を前にして自滅し始めています。新党が次々と立ち上げられていますが、メディアは普天間基地移設問題と絡めて国民を新党の期待へと扇動しています(故に、マスゴミとも言われている)。別に、民主党を支持はしてはいないが、普天間返還を決めたのは自民党政権時代なのであり、後処理のために新政権が尻拭いをさせられている訳である。この問題に限らず、年金、医療、介護、教育、経済、環境、農業など国民の生活に密着する問題が山積しており、過去の自・公政権が、いかに国民を放置してきたのかを逆に証明している。被害危惧種は可憐な国民に襲いかかっております。日本(国)がダメになる、などと国民を恫喝しているが、ダメになっているのは彼等なのである。

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2010年4月15日 (木)

ソメイヨシノの宿命

20100411110229 気象庁は、この時期、14年ぶりに低温注意報を発令したそうである。田んぼはよく乾燥するまで「田起こし」ができないし、例年の五月連休苗床作りが遅れる。元々、川中島平の稲作は、全国で最も遅い地域の一つであるが、他の地方では今年の生産量は減るだろう。ところで、もともと桜は観賞用ではない。農事暦と関係があるのだ。古代においては、花といえば梅であり、次第に桜がその代名詞へと取って代わる。桜は匂わないこともあるし、実をつけない。だから、農民は家の屋敷内には植えていない。あくまでも里山の中で、農事の目安として植えられていたのである(一本桜が多い)。江戸時代に愛でられ始め、クローン桜であるソメイヨシノの登場(桜の約8割はこれ)によって、学校、公園、寺社や城跡、河川堤などに意識的に植え付けられ、国威発揚と自己犠牲のシンボルとして日本の花となったのである。しかしながら、ソメイヨシノには寿命がありまして、次々と接木しないと消滅する宿命を負っている。何か、日本の運命のような気が・・・。わが家の桜もそういう運命だろうか(苦笑)。ヤマザクラかエドヒガンを選択すればよかったのかも・・・、なんて今頃になって後悔しているが、当のソメイヨシノには責任がない。大阪を離れる前に、大川(旧淀川)縁のお花見と造幣局の通り抜け(Uターン禁止というところが面白い)をしましたが、外国人の多さに驚かされたものである。ナショナリズムのシンボルとしてではなく、平和のシンボルとして桜は鑑賞したいものである。これからのシーズンは、さらに桃や梨や林檎などの花が咲き乱れる。鑑賞する眼も忙しい信濃路である。

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2010年4月13日 (火)

内村鑑三という人

20100413170626  いくらなんでもという訳で、午前中に車二台のタイヤ交換をしました。気温は20度を超えたようで、汗ばんで我が家の桜の花弁も四輪満開になりました。タイヤと同じ数が開きました。初めての開花です。よかったあ。購入した時に暫く放置して弱ってしまったり、子どもが土を踏みつけたり枝を折ったり、勝手に兄が枝先を剪定してしまったりで、一時は枯れるのではないかとヒヤヒヤものでしたが、とりあえず樹木は大丈夫なようです。開花や収穫の後に与える肥料をお礼肥えというらしい。ちょっと何にしようか思案しておこう。午後は、花盛りの里山を散策しました。

 こんな本を暇にまかせて読んでみた。内村鑑三という人は、教科書にも出ていて高名ではあるが、彼は、明治・大正という近代国家の形成過程において、クリスチャンとして、不敬事件の当事者となっている。また、無教会の創始者でもある。この二点が、やはり彼を知る意味で肝要である、と思う。本日は頭痛がして頭が重たいので、後日に詳しく展開したい。

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2010年4月 6日 (火)

千々に乱れる思い

20100403115646  ボケの花ですな。遠景に冠着山(姨捨山)が見えます。川中島平に生活していると、お日様に顔を向けると、この山が視界に入る。と同時に、少しく閉塞感を感じた少年時代でした。「おてしょ」(川中島方言で、小皿の意)の中にいる感じ、または井の中の蛙という感じ。里山の美しさもいいのだが、ちょっと気が滅入る思いもする今日この頃です。

 つい先程まで「報道ステーション」を眺めましたが、報道メディアの劣化は酷いですな。特に、古館のものは最悪です。本質を突くのでもないし、ぐちゃぐちゃ意味のない解説が多いし、クダラナイ情報が垂れ流され、国民の真意からズレまくっています。これなら「Zero」の方がマシ。昨夜、思いがけなくNHKスペシャル|アフリカン・ドリーム第一回を視る機会がありました。眠たい目をこすりながらでしたが、大要は、虐殺を乗り越えて、経済復興の目覚しい「ルワンダの奇跡」をディアスポラという視点から分析した番組でした。一度、アフリカに行ってみたいなあ。昔は、モンゴルの平原に寝転んでみたいという願望がありましたが、司馬遼太郎と朝青龍の所為で、嫌になりました。今では、断然、アフリカです。

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2010年4月 3日 (土)

超越論的哲学

20100403074331  梅の花が、ほぼ満開になりました。野暮用と髪切りのために、単身サイクリングしました。時折、強い風が耳を鳴らし、皮膚にはやや肌寒い時がありますが、気持ちよく陽を浴びました。こんな陽気の中、自然を体感できない、車に乗る人が可哀相です。長野県選出の某議員が代理投票で辞職したというニュースに接して、やっぱりな、と失笑した。これは長野県の政治を象徴しています。官僚が県政を支配しています。祭り上げて恩恵に浴し、屏息して猖獗する、という県民(特に、北信)体質が垣間見えます。県民は、立身出世の官僚制が大好きです。これに比する、勇壮な諏訪御柱祭の開幕と共に、信州の春が到来しています。

31697763  難解な本は、第一に著者の立場性に瞠目するのであるが、それでも不明な場合は、第二に、本の終始に目をつけるという鉄則に従って、ここでは第二の鉄則を採用する。この本の著者によれば、人類の喫緊の課題は、戦争と環境破壊と経済的格差という三つのそれである。これらは押し並べて、資本と国家の問題に帰着する。破局を回避する目論見では、国家という障壁にぶち当たる(以上、p224~225)。サブタイトルから推測すれば、国家を超越論的に論じようということらしい。その昔、カントの『純粋理性批判』を輪読している時に、古いドイツ語辞書にしたがって、transzendental を先験的と訳していた初期の頃の恥かしい思い出が残っている。いずれにせよ、柄谷氏の試みは国家の揚棄であるので、国家(殊に、マルクスの国家観)を徹底批判している内容である(p40)。結論はカント的なものだが、いくつかの点で考えさせることがあった。一つは、「商品交換は国家に依拠する(相補的関係にある)」(p71)ということである。貨幣-消費というシステム(ある意味では、これこそ資本主義の強制力であり、労働者に意味のない労働を強制させていると言うべきだろう。消費が労働を強制させているのである)ができあがる歴史的経緯の中で、国家は益々消費税という形でその強制力を強化しているようである。それは、「プロレタリアとはむしろ(剰余価値を生み出す)消費者である」(p140)という彼のユニークな視点と関係する。現時の世界経済の行方を知る上で、重要な位置を占めているのは中国の「社会主義市場経済」である。現代の帝国主義諸国においては、基本的に過剰資本、供給過剰という状況であり、グローバル化したとは言え、特に中国市場は垂涎の的である。そして、消費経済の中で、どのように中国社会が推移するのかは注目の的である。大凡、日本社会の推移と相似すること(超消費社会、超高齢社会など、2030年頃にはその兆候や動乱)が予想されるが、それは著者流に解釈すれば、世界崩壊か、世界共和国ともいうべき事態か、ということだろうか。別の意味で、私はそうとは思っていませんが・・・。論点は他にもあるが、今日のところは、この辺で。

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