司馬文学について4
司馬自身が「私の作品は、一九四五年八月の自分自身に対して」「手紙を出してきたようなもの」という限りは、私的な関心もあって、「戦中派」である司馬自身の戦争経験について検討しなければならないだろう。先ず彼は、戦車に乗って「蒙古高原にかけている夢が、国民の将来の幸福とむすびいたものであると信じていた」と回顧している。ところが、敗戦を期に、密室の戦車から解放され、なぜこんなばかな戦争をする国にうまれたのか、と疑問を抱く。ここで注意しなければならないのは、司馬には侵略戦争と戦友に対して、何の責任と贖罪感を持ち合わせていないということである。非難すべきは、無能な上官であり、昭和初期の軍部指導者となっているのである。こういう見解は、子どもの頃に親父達の茶飲み談義でよく耳にしたものである。その談義に加わる者の中には、挙句の果てには、その戦争のお陰でアジア各国は解放されたと述べ立てる兵(つわもの)もいた。この辺のことは、『街道をゆく 台湾街道』(1994)と歩を一にしていて詳しい。「夢」を抱かされて戦争責任を他人に転嫁したり、説教強盗の物言いといい、反省を伴わない凡庸な見解である。戦争体験記を熟読したり、体験者の声に傾聴すると(なぜなら、彼らは寡黙であるからである)、そのような見解の保持者は、悲惨な戦争体験者でないことが多い。そういう意味では、昭和のインテリとも称される司馬は、戦争体験者ではない。また、体験を対象化して経験として自己措定していないという点では、戦争経験者でもないと言わなければならないだろう。尚、『戦後思想家としての司馬遼太郎』は、司馬の植民地主義に対する方便としての批判はあるが、真の意味での司馬批判にはなっていない。あくまでも、司馬の戦後における「思索」を論じるのが主眼である(まだまだ本論に入っていません。笑)。
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