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2009年11月26日 (木)

司馬文学について5

20091118131913_2  息子は今朝も元気に登校しました。嫁はんが忌事のために帰省しているので、少し律するようになり、独立心も芽生えたか。促すと身支度をして御飯を食べる。でも、夜に嫁はんに電話すると、「早く帰ってきてぇ」と涙ぐむ。やっぱり、お母さん子だ。お父さんはいらない(笑)。

 司馬の著作を読むと、登場する女性はお姉さん的なものが多いということだ。ほとんど読まないが、『竜馬がゆく』ではそういうことらしい。そこで、『信州佐久平をゆく』でも、その辺のことを探ってみよう。ここでは四人の女性が登場する。先ず、お馴染みの朝日編集部の桜井孝子さんである。信州大学出身で、小柄でお下げの髪なので、司馬には「稚(おさな)げ」に見えるらしい。母堂が佐久総合病院に入院しているので、紀行に随伴することになる。「多くの信州人と同様、信濃の景色と人情を誇りに思っているようで、・・・可愛くもあり、好もしくもあった」(p408)。数箇所で彼女とのやり取りが記録されているが、基調は「健気な稚女」という印象である。後半では全く登場しない。二人目は、別所温泉での賄いさんである。司馬の仮想からの「いい寺ですか」という質問に、常識的に答えて、司馬の感慨はない。代わりに、宿のパンフレットに「湯聖」や別所温泉のいわれが書かれていないことを得々と不平を鳴らす。三人目は、小諸城址内の大衆食堂の「女の子」である(p503)。「仏頂面」で背を向けて「不機嫌そう」といい、「アウシュビッツのナチの下士官」のようだと形容している。周囲の騒音もあろう、店主の商業主義もあろうが、信州人に対する期待の過剰がそのような思いになったことを弁解しているが、そこまで侮蔑する所以が司馬にあって、信州乙女に課せられていいものだろうか。四人目は、知人の病院見舞いのために、花を探すスーパーでの花屋さんである。赤い花を挿すための花器に執心する話である。商品ではない店舗用のステンレス製の桶を所望する司馬に対して、親切にも本店に問い合わせた「娘さん」であるが、この対応に「何だかソ連のなにかの売店で物を買ってもらっているような感じ」(p505)を受けている。確かに、観光県・信州の客対応は悪い。が、信州乙女ひとりに、そのような思いの責任を負わせるのは正しいことなのか。その一方、多くの地元人士や文化人・郷土史家には一人として出会っていない。他の「街道をゆく」とは異なって、そのことに豪も託(かこ)っていない。不思議である。

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