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2009年11月18日 (水)

司馬文学について3

20091117094217  で、「信州佐久平みち」(全集49所収)なのだが、これは「街道をゆく」シリーズの一環で、他のものと異なって精彩がない。一つは、ぬやまひろし(西沢隆二)を見舞う旅の序でであることもあろう。もう一つは、司馬にとって、傑出する人物が見当たらないこともあろう。彼の周辺には関西文化人と学者が取り巻いていた。だから、考えが異なるものを包摂しながら互いに批判し合うことがない。異分子ともいえるものが混在しているところに司馬の立居があるのである。だからこその人気とも言えるだろう。しかしながら、司馬独特の価値観と史観が、フィクションである歴史小説に挿入され、それがあくまでも虚構であるにも拘らず、それを真実と思わせてしまうところも司馬文学の「魅力」になっているのである。その格好のものが「英雄」である。司馬にとって、英雄は国内統一する時に登場する。例えば、源頼朝であり織田信長であり前期豊臣秀吉であり徳川家康であり、そして幕末志士などである。海外膨張の時には凡庸な指導者の輩出となり、例えば、後期豊臣秀吉や昭和前期の軍人などである。さらに、そうした司馬史観は、日本史の中では極めて偏頗で奇妙な見方をしている。それ以外の歴史や人物が軽視されるということである。そして文学のフィクションが史観のフィクションに通底するようになるのである。それでこそ、司馬の真骨頂であり、だからが故に、国民文学と言われる所以である。言葉が悪いが(そしてこれは驚嘆もしくは賞賛されることだが)、二度も騙されてこその司馬文学なのである(ところで、肝心の「信州佐久平みち」の批評はどうなっているのか、と叱声も聞かれますが、もうちょっと前置きを辛抱してください。笑)。

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