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2009年11月

2009年11月29日 (日)

司馬文学について6

20091128103538  キャベツと野沢菜(奥)が育っています。人のうちの畑を写してみました。季節は晩秋から初冬へと変化しております。通院やら来年の手帳を購入したりと野暮用をこなしました。

  『信州佐久平みち』の冒頭から、「私は、信州については知るところがない」「その土地へは行ったことがない。信州そのものも知らない。第一、信州へは大阪からどう行けばよいのかについても、知るところがなかった」と与太を飛ばしている。それでも、紀行前に「三週間ばかり」勉強したようだ。そして、信州の景観から、シナノの由来を坂もしくは山の斜面説を唱えている。よほど坂がお好きのようである。司馬は信州についての無知を吐露しているとは反対に、信州評を随所で散りばめている。「一茶がよろこんだ信濃の風土」(これは定説・事実に反している)、「律儀者のすきな信州人」、真田昌幸=代表的信州人、「信州人は勤勉で律儀で、他人の朝寝の自由など頭から認めてくれない」などと論じ、信濃国分寺址を訪問すると、「往年、自分の環境を守ってきた信州人の姿勢は、どこかで崩れはじめている」(p500)と難詰する。よほど癇に障ったようである。その地に赴くと、司馬は必ず国分寺址を訪ねるという。素っ気無い址を眺めて、信州人を「がさつ」と評している。後は、司馬の本性が現れた文章展開になっている。司馬には「大衆」や「商業主義」がお気に召さないようである。それに反して、軽井沢(のホテル)にはいたくお気に召して、泥酔する。そして、肝心の「御牧」はそこそこに、『枕草子』の中で清少納言が別所温泉や望月の御牧を高く評価したように、その古代人の風評の所以を探ることもなく、旅路を打ち切る。まったく、駄作ともいうべき紀行であると言わねばならない。おそらく、佐久平は古代人にとって北方侵略の最前線基地であったであろう。憧憬と繁栄の地方柄だったのである。信濃は麻布と馬の供給地であり、佐久平はその要であった筈である。中世には郷党や真田一族などの活躍があり、江戸末期においても、寺子屋と百姓一揆の多さでは随一であって、民衆の次元から明治維新を準備した土地である。明治以来も、農民・無産運動やアナーキストの抵抗運動(南澤袈裟松など)が根強い。二・四事件では、農民・労働者が弾圧され、東信地区の大衆運動は壊滅されている程なのである。これ以上司馬について言及するのは止めることにする。何の関心も興味もないし、読みたいとも思わない。封印しておきたい作家である。付言すれば、司馬文学は、まことに得手勝手で、史家と認められないし、「偏頗で奇妙な」(司馬の常套句である)それと断じなければならないだろう。

 

 

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2009年11月26日 (木)

司馬文学について5

20091118131913_2  息子は今朝も元気に登校しました。嫁はんが忌事のために帰省しているので、少し律するようになり、独立心も芽生えたか。促すと身支度をして御飯を食べる。でも、夜に嫁はんに電話すると、「早く帰ってきてぇ」と涙ぐむ。やっぱり、お母さん子だ。お父さんはいらない(笑)。

 司馬の著作を読むと、登場する女性はお姉さん的なものが多いということだ。ほとんど読まないが、『竜馬がゆく』ではそういうことらしい。そこで、『信州佐久平をゆく』でも、その辺のことを探ってみよう。ここでは四人の女性が登場する。先ず、お馴染みの朝日編集部の桜井孝子さんである。信州大学出身で、小柄でお下げの髪なので、司馬には「稚(おさな)げ」に見えるらしい。母堂が佐久総合病院に入院しているので、紀行に随伴することになる。「多くの信州人と同様、信濃の景色と人情を誇りに思っているようで、・・・可愛くもあり、好もしくもあった」(p408)。数箇所で彼女とのやり取りが記録されているが、基調は「健気な稚女」という印象である。後半では全く登場しない。二人目は、別所温泉での賄いさんである。司馬の仮想からの「いい寺ですか」という質問に、常識的に答えて、司馬の感慨はない。代わりに、宿のパンフレットに「湯聖」や別所温泉のいわれが書かれていないことを得々と不平を鳴らす。三人目は、小諸城址内の大衆食堂の「女の子」である(p503)。「仏頂面」で背を向けて「不機嫌そう」といい、「アウシュビッツのナチの下士官」のようだと形容している。周囲の騒音もあろう、店主の商業主義もあろうが、信州人に対する期待の過剰がそのような思いになったことを弁解しているが、そこまで侮蔑する所以が司馬にあって、信州乙女に課せられていいものだろうか。四人目は、知人の病院見舞いのために、花を探すスーパーでの花屋さんである。赤い花を挿すための花器に執心する話である。商品ではない店舗用のステンレス製の桶を所望する司馬に対して、親切にも本店に問い合わせた「娘さん」であるが、この対応に「何だかソ連のなにかの売店で物を買ってもらっているような感じ」(p505)を受けている。確かに、観光県・信州の客対応は悪い。が、信州乙女ひとりに、そのような思いの責任を負わせるのは正しいことなのか。その一方、多くの地元人士や文化人・郷土史家には一人として出会っていない。他の「街道をゆく」とは異なって、そのことに豪も託(かこ)っていない。不思議である。

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2009年11月21日 (土)

司馬文学について4

32277567_2  司馬自身が「私の作品は、一九四五年八月の自分自身に対して」「手紙を出してきたようなもの」という限りは、私的な関心もあって、「戦中派」である司馬自身の戦争経験について検討しなければならないだろう。先ず彼は、戦車に乗って「蒙古高原にかけている夢が、国民の将来の幸福とむすびいたものであると信じていた」と回顧している。ところが、敗戦を期に、密室の戦車から解放され、なぜこんなばかな戦争をする国にうまれたのか、と疑問を抱く。ここで注意しなければならないのは、司馬には侵略戦争と戦友に対して、何の責任と贖罪感を持ち合わせていないということである。非難すべきは、無能な上官であり、昭和初期の軍部指導者となっているのである。こういう見解は、子どもの頃に親父達の茶飲み談義でよく耳にしたものである。その談義に加わる者の中には、挙句の果てには、その戦争のお陰でアジア各国は解放されたと述べ立てる兵(つわもの)もいた。この辺のことは、『街道をゆく 台湾街道』(1994)と歩を一にしていて詳しい。「夢」を抱かされて戦争責任を他人に転嫁したり、説教強盗の物言いといい、反省を伴わない凡庸な見解である。戦争体験記を熟読したり、体験者の声に傾聴すると(なぜなら、彼らは寡黙であるからである)、そのような見解の保持者は、悲惨な戦争体験者でないことが多い。そういう意味では、昭和のインテリとも称される司馬は、戦争体験者ではない。また、体験を対象化して経験として自己措定していないという点では、戦争経験者でもないと言わなければならないだろう。尚、『戦後思想家としての司馬遼太郎』は、司馬の植民地主義に対する方便としての批判はあるが、真の意味での司馬批判にはなっていない。あくまでも、司馬の戦後における「思索」を論じるのが主眼である(まだまだ本論に入っていません。笑)。

 

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2009年11月18日 (水)

司馬文学について3

20091117094217  で、「信州佐久平みち」(全集49所収)なのだが、これは「街道をゆく」シリーズの一環で、他のものと異なって精彩がない。一つは、ぬやまひろし(西沢隆二)を見舞う旅の序でであることもあろう。もう一つは、司馬にとって、傑出する人物が見当たらないこともあろう。彼の周辺には関西文化人と学者が取り巻いていた。だから、考えが異なるものを包摂しながら互いに批判し合うことがない。異分子ともいえるものが混在しているところに司馬の立居があるのである。だからこその人気とも言えるだろう。しかしながら、司馬独特の価値観と史観が、フィクションである歴史小説に挿入され、それがあくまでも虚構であるにも拘らず、それを真実と思わせてしまうところも司馬文学の「魅力」になっているのである。その格好のものが「英雄」である。司馬にとって、英雄は国内統一する時に登場する。例えば、源頼朝であり織田信長であり前期豊臣秀吉であり徳川家康であり、そして幕末志士などである。海外膨張の時には凡庸な指導者の輩出となり、例えば、後期豊臣秀吉や昭和前期の軍人などである。さらに、そうした司馬史観は、日本史の中では極めて偏頗で奇妙な見方をしている。それ以外の歴史や人物が軽視されるということである。そして文学のフィクションが史観のフィクションに通底するようになるのである。それでこそ、司馬の真骨頂であり、だからが故に、国民文学と言われる所以である。言葉が悪いが(そしてこれは驚嘆もしくは賞賛されることだが)、二度も騙されてこその司馬文学なのである(ところで、肝心の「信州佐久平みち」の批評はどうなっているのか、と叱声も聞かれますが、もうちょっと前置きを辛抱してください。笑)。

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司馬文学について2

20091117162250  久しぶりに二日休みになったので、司馬遼太郎のことはどうでもよくて、あることを調べに県立図書館に出向きました。時雨れて寒いです。帰宅すると早速息子に捕まってしまい、将棋をしたり、じゃれあったりしてこんな時間になりました。たった40年も経過すると当時を偲ぶ資料も散逸してしまい、10年ほど前に関係者は次々と逝去されて、聞き取りも儘ならない事態である。電話での問い合わせにも、「書庫を調べたが(資料は)残っていない」との返事。しかし、ここで諦めるわけにはゆかない。

 人々の司馬への関心は、近代日本の形成過程を描く歴史小説とエッセイなどに集約されることが多い。周知のように、戦中派としての司馬は、戦争体験というよりはむしろ、戦争経験から出発している。己を客観視できる状況から出発している。「戦時」と呼ぶ侵略戦争に没入した昭和前期とその熱狂からの解放として捉えるだけでなく、天皇制論議を峻拒している。だから当然の如く、それ以前の日本(昔の日本)はまだマシだったとなっている。県立図書館で調べ物をしていると、カウンターでは、坂本竜馬の問い合わせをしていた人がいた。1960~70年代執筆の時代小説に人気は集中しているのである。それはナショナリズムへの危機意識が根底にある、と思う。以下続く。

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2009年11月16日 (月)

司馬文学について

20091106112503  司馬遼太郎の「信州佐久平みち」(全集46所収)を読み解いてみた。司馬ブームの予感がするからである。本当は読みたくないのに、である。今までにも一編の小説も随筆も読んだことはない。否、読み始めると感性の違いから、放り出すのが必定になるからだった。高校生の時、先生が興奮気味に司馬を讃辞していたが、何かその語りに欺瞞と嘘くささを感じたからである。できればこうした先入見無しに丹念に字面を追ってみた。司馬本人には遭遇したことはないが、みどり夫人には遭遇したことがある。近畿大学の周辺である。死後のことだから、多少消沈していた印象を受けた。彼の自宅と記念館は朝日新聞東大阪支局と隣接している。赤○隊事件以降のことだから、当然支局は警戒用域で、物々しさが漂っていた。今ではそれも忘れ去られ、司馬フリークには支局が隣り合わせにあることに違和感を覚える人が多い。それもあって、司馬を冷静に批判することは恐さもある。それほど司馬の本は人々に読み継がれてきたのである。国民文学の一つと言ってもいいだろう。司馬文学の意図は兎も角、これを支持する読み手には何かある。女性の読み手がほとんどいないばかりか、小説の主役として選ばれることがほとんどないのが特色である。これは何を物語るのか。以下続く。

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2009年11月12日 (木)

二・四事件のこと

20091112162924  書類を届けてから図書館へ。合間に「おっしゃん」(川中島平方言で、年配の男性を指す。語頭を高くしてから下げてアクセントすると、坊さんを指示する)と話をしたが、自分の都合、事情、考えを述べるばかりで、会話した気がしない。これが大阪人とだったら考えられない。ちょっと独善じゃないの、と県民独特の意識に抵抗を覚える。だから、読書と耕作をするしかないのか(笑)。木村秋則氏の『自然栽培ひとすじに』という本を図書館で予約しているが、あと2人待ちで、順番が回ってこない。一つのブームになっているようで(オレもその一人か。笑)、変な取り巻きに利用されているのではないかとの疑念を覚える。数年来、ある人物について調べているのだが、全く進捗していない。文献・文書が寡少で、しかも物故者が多く、ほとんど限界状況に遭遇している。聞き語りを急がなければならないのだが、暇も金もない。仕方がないので、『信州昭和史の空白』を閲覧する。二・四事件の故・高地虎雄テープと河村卓の章を読む。事件の被害者達は、教職を追われ、ある者は病死し、ある者は戦死して資料が少ない(補償もない)が、高地氏の生涯は壮絶である。「アカ」の報復・汚名返上という理由で松本五十連隊・遠山部隊の一員として中国の前線に送られる。そうして、死線をさ迷いながら生還し、最期は殉教死している。県や教育会が、河村氏も語っているように、二・四事件の汚名返上として国策の満蒙開拓運動に加担・協力していったという考えは、間違いないことだろう。(暇にまかせて、石榴のジュースを寒天で固めてみました)

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2009年11月10日 (火)

昭和の信州教育

200911071226001  塩野入忠雄氏の『昭和の流痕』(信濃教育会出版部、1991)という随筆集を読んだ。「信州の一教師の哀歓」という副題があるように、教師として昭和の激動の時代を生き抜いた思いが綴られている。元々のタイトルは「川原の小石」だったと思うが、新しいそれの方が内容を暗示するもので、適確である。が、時代に翻弄されたという点では共通している。時代背景は、大正期の信州自由主義教育が終焉し、昭和初期の農村不況、「赤化事件」、軍部の台頭、十五年戦争、戦後民主教育などである。自らは、病魔との闘いや戦死した担任生徒に対する責任と謝罪や戦後教育への貢献という激動の昭和の時代であった。巻頭は「教員赤化事件」に関わった旧友の想い出であり、末尾は「北満開拓団」に挺身した旧友の思い出で終わる。戦争体験者の多くは、国のために戦死した者に対し「生き残ってしまった」という痛苦の念のために口を閉ざすか、寡黙である。ために、戦争の実相を掴むための障碍にもなっているばかりか、現時、次々と土に還っている。その時代を知るよすがとして読み始めたのである。というのも、氏の名は「二千年ハス」の話を学校で聞いて知っていたからである。他の体験記と同様に、生き残り教師としての断腸の思い、慙愧の念が語られているが、著者は「自己弁護」していない(p268)。しかしながら、この本を読んでいると、随所に皇民化教育に加担していたことが垣間見れる。「教師は子どもとともに学習する者」との教師の本質(p55)という著者の信念が、いとも簡単に時代の奔流に身を任せてしまったのか、という批判は容易である。戦争への不安とそれをかき消す鼓舞の絶叫を欲しがる心情(p98など)が民衆の中にあったのではないか。教育県としての信州教育は、今は見る影もない。しかし、教育や研究に専念・従事する教師は多い。信州教育を切開しながら、新たな教育を創造していく時期と機会が成熟しているのではないか。 

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2009年11月 7日 (土)

それはそれで

20091107120021  鍬で耕しました。鷺にも遭遇し、軽快な思いで鋤き始めましたが、やはり、汗を拭いながらの耕作でした。目標は高邁で、無農薬・無肥料・無機械、更に無○○、という魂胆です。いろいろと助言を得ていますが、殆ど無視ということで・・・(秘密)。大層に反論すると、田舎ですから付き合い上問題もあります。朝から農業委員の方が訪問して下さり、勝手に新規就農者にされそうですが、それはそれで、営農意欲は多少はあるのですが・・・。ということで、鍬一丁で耕しました。

32087162  農業ブームである。テレビや雑誌でも農業特集が組まれる。それはそれでいいことなのかも知れないが、産業としての農業が危機に瀕していることが原因であると思われる。それは同時に、人々の食に対する漠然とした不安もあるだろう。しかし、ブームは去る。その時にどうするのか、というのが一番大事なことだ。自分の食い扶持は自分で作るというスタンスが大事だ。今の日本では、約6割の食糧を輸入し、約30%を破棄している。こうした現状に対して、危機的な論調が占有されているが、生産者側のものはなく、そんなものは何も意味はない、と思っている。金がなくなったら鉄骨でも紙くずでも食べたらいいことなのだ。その位の覚悟がなければ、真の意味での農業の重要性は分からないだろうからである。食育?地産地消?そんなことを考える前に、農業・農民や農業高校・農学部や食糧事情や温暖・砂漠化や資本主義における農業の位置などについて、まともに考えたことがあるんかい、と問い質したい。野菜や米や小麦などを一つでも生育させたことがあるんかい、と問い質したい。人間にとって最も大事なことが最も卑しめられている現状をどう考えているのか。この本の初めで、新規農業後継者が医師になる人の数よりも少なく、5千人以下であることが明らかにされている。声高に食糧安保を叫ぶ人には到底分からない事態であろう。著者は農林水産省の政府委員をしていて著名であるが、地産地消と食育だけでは農業の再生になるとは思えない。

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2009年11月 3日 (火)

ざくろと柿取り

20091103181856  今日は息子も参加して柿取りをしました。脚立に乗り出しながら、ちょっと恐い思いをしながら一本の柿の木を終了。ふと気が付くと、息子の気配がしない。すると、家の中に戻ってテレビを見ている。見上げてばかりで首が痛くて飽きた、ということです。その理由は信用できない(笑)。その前に一人でざくろを収穫し、チャック付きのビニール袋でオシオシして、汁を取り出します。これは息子は喜んでしました。畑では石灰をまいて土にまぶしました。SEIYUにも出かけて、ベイブレードのカードを購入しました。これは息子の切望。振り回される私も、閉口の一言です。

200911031833432_2  ざくろ8個ほどでも、これ位しか果汁は採取できませんでした。これからどうしようか。グレナデンシロップにするか、単なるジュースにするか、はたまたゼリーにするか、それはこの二、三日中に考えよう。それよりも、おやじとしては、お酒を飲んで寝るという結論にしました。その前に、ちょっと柿の皮むきをしてっと。ゆるゆると一日が過ぎました。信濃毎日新聞で、小林計一郎先生の死亡記事を目にしました。嫁はんは、一時期先生のお世話をさせていただいたこともあり、言葉もありませんでした。私も、先生の著書を一時期読ませていただきました。夫婦共々、ご冥福をお祈りすると同時に、衷心よりお悔やみ申し上げます。「戦中派」の人士が次々とお亡くなりになられています。時代の転換期を思います。

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2009年11月 1日 (日)

ずっと見ることの辛抱強さ

20091027144837   前代未聞の「自然栽培」(無農薬・無肥料)を9年後に成功させた、木村秋則氏の『リンゴが教えてくれたこと』から、水田耕作を実践してみようと思っています。氏は、その中で観察と手間暇の重要性を喚起しています。そこで八時前に田んぼに出向いて、つくづくと観察しました。ハクセキレイがチョコチョコと餌を求めて歩き回っていることしか分からない。観察力が欠如しているなあ、と我ながら呆れました(笑)。もうちょっと土(川中島方言では、「べと」)を見なくては・・・。それでも木村さんは、「そこに余計な技術を使わないで、ずっと見ているってことが大事なんですよ。それがみんな、高学歴になるとじっとしておれない。その辛抱強さ、耐えられる人が今いないんですよ」(p154)と慰めてくれます。毎日のように通い詰めようと決意しました。自然農法は、決して放任農法ではありません。むしろ正反対です。「たあくらた(怠け者)」にできるであろうか。一度、木村さんの力強いリンゴを試食してみたいものです。リンゴ栽培は難しいです。「リンゴは労多く益なし」という口碑があります。リンゴには生産農家の信念と努力が集大成されています。そして「ボケる(長野方言で、エチレン化して大味になること)」のも早いので、旨いリンゴは秋冬にしか食べられません。いよいよ11月は、サンふじ(無袋で、JA全農ながのの登録商標)の収穫・出荷の時期です。

 そして、時雨れてきたので、やはりだらだらと趣味の午睡をする。夢も見ました。目が覚めて、農書を購入したので財布の中身は払底してしまったこともあるし、図書館へ。いつまでも貧乏です。

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