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2009年9月10日 (木)

都市発展論の自家撞着

20090910102644  ある目的があって田園を散策した。人影があると、度毎に尋ねてみた。「あぁ、ちょっとわからねぇから」と、両目だけを出して日焼け除けの頬かむりをした年配の農婦は手を振ったが、不審者でないことがわかると、地域の事情の一端を教えてくれたばかりでなく、「父やんが2年前に亡くなって、娘達はみんな嫁に行っちゃった」と身の淋しさを嘆いた。「息子も高速バスの運転手で、昼は寝るからお百姓はできねぇなあ」と言いながら、親切に道を教えてくれた。また、爺やんは「あそこは欲が深いからなあ」と声を潜める。草刈り中の爺やんは、面倒くさそうに答える。皆さん、顔に皺が入り高齢を思わせる。当地の農業は、あと10年が限界であろう。『都市の成立と発展』という本を読んでみたが、都市は農村・農地を犠牲にして発展するということがよくわかる。中心市街地をいかに活性化するかという問題意識であるが、地方に50万、100万都市なんか要らない。基本的に、都市の発展が当然視される無邪気な進歩史観である。どこの地方も、都市への一極集中とそのドーナッツ化現象を招いて、新たな幹線道路の建設(ロードサイド化)で田園はズタズタになっている。大胆に地方分権するべきである。ただし、道州制は地方には何のメリットがない。道州制も中央集権もほとんど同じだからである。本を読んでいて興味深かった点は、30万以上の都市の条件として、政治機能(行政機構)の集中が必要であり、工業団地を造成して企業を誘致しても無駄ということである。いずれにしても、長野市の南北の地域格差と川中島平における地域商店街の衰退は、実は、著者自身の頭に顕在しているように、都市の発展史観に原因があることに著者は気付いていない。程々がいいのである。

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