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2009年8月 4日 (火)

信州の行く末

19538707  著名な文部省唱歌である「故郷」は、長野県出身の高野辰之の作詞である。その原風景は北信濃のそれである。信州は「山紫水明の地」とも自慢されているが、高野が思い浮かべて作詞した自然は、明治時代末期のそれであって、現代では、そのよすがもないと断言して構わないと思う。便利さと引き換えに失ったものは大きい。だが、時代の変転を憂いて復古を願うのも錯誤と言わなければならない。しかしながら、悪弊を反省して子々孫々に伝達することに躊躇ってはならないと思う。それは現代に生きる我々の責務であるから。堰(信州では用水路を堰という)には、蛍もいないし、鮒も泳いでいない。人よりも車が溢れている幹線道路(異様な光景)の傍は、近代建築か田畑かの何れかである。一番のエコはできるだけ乗用しないことだ。エコロジーではなく、エコノミーのエコになっているのに、ごみ減量なんて、のたまっている。不思議でならない。この本の著者は、地域性こそ信州の財産である、と見究めている(p229、238、283)が、その振興策は山村の美しい自然を生かす観光であると結論している(p102、103)。自然を観光資源とするならば、山河を整備しなければならない(80%は山林)が、県の(農林)行政はそれに本腰ではないと思われる。山紫水明の土地など、全国至るところにあるのである。今必要なことは、地域の歴史や文化を掘り起こすことである。確実に世代交代しているからである。例えば、長野と松本との地域間対立などという近視眼的な信州論があるが、井の中の蛙論と言わねばならない。この本の中の「信州合衆国」(p237)という言葉は、そのヒントである。プリズムのようにそれぞれの地域性を発掘して連携してゆくことである。そうでなければ、信州は単なる日帰り施設であり、通過県になるだろう。そして、いよいよ東京に毒されてゆくだろう。中央にばかりに向いている知事では無理なことであろうが。

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