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2009年8月21日 (金)

教師へのいじめ

32156850  昨日から新学期が始まり、息子の夏休みは終了致しました。そして、嫁はんの憂鬱も解消いたしました(笑)。起きている間はじっとしていないので、嫁はんは、息子の世話と相手でホトホト心身疲れ果て、口論の毎日が続きました。その余波と世話が私にも押し寄せて、私も少々疲れました。学校の先生に昼間はお任せします。先生は偉いね。と言っても、教育の現場は意外に知られていないのではないか。中学生ともなると、生徒の自己主張もあって、その大変さは想像はできるが、この本を読むと、中学教師は四面楚歌になっている状況がかいま見える。書類書きと生徒指導と研修などで大忙しの教員の現場である。教師の自由裁量なんて無きに等しい。「個性重視」というお題目なんて、現実社会でもあり得ないにも拘らず、教育界では大手を振っている。失敗を怖れてどこか抑圧されてしまっているような感じ(p251~252)は、現実社会の大写しである。やむなく事なかれ主義に陥る(p176)かキレてしまうか、どちらかである。教師や学校をいじめたってどうなるものか。「教員の現場が重度のストレス社会になっている」(p62)のである。日本の侵略戦争は何故生起したか、という問題の回答の大枠は、明治時代の政治体制と皇民化教育であるのは明らかだが(何十年という準備期間があったのだ)、司馬遼太郎は、やり方が悪かったのである、などと宣っている。戦力のない戦車がどうのこうの、軍事戦略がどうのこうの、幕末の志士は凄かったなどと、とんでもないことを並べ立てている。この時期において、あらかじめ、司馬を封じ込めておきたいものだ。

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