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2009年4月

2009年4月30日 (木)

『生きるなんて』

20090430104630  快晴の一日。散歩をしてみました。ツバメが旋回して、セキレイやスズメなどが忙しく立ち回っています。リンゴの花が咲き、紫蘇が栽培されています(画像)。カラスノエンドウやアヤメや桐の花など、赤または青紫系の花々が咲き誇っています。庭木には、白やピンクのハナミズキが多いですね。道草は、ヒメオドリコソウやヒナゲシなどの1960年代以降の帰化植物が繁殖し、下草が埋め尽くされているリンゴ農園もあります。一回周遊するだけで、驚き桃の木、山椒の木と言うところです。もう歳なんだから集中力で勝負だあ、ということで、他のことは捨て置く。世界的に蔓延の兆しという豚インフルエンザのことも知らない(笑)。『生きるなんて』のキーワードは、「自我の確立」と「自立した人間」である。安逸に生きている人間にとっては、身も蓋もないので放置するのが得策である。「時間なんて」の章で、「生身の人間の脳の力は、・・・一日に二時間が限度である」と教示して、その二時間に備えるためには、睡眠である(p36~37)と教示している。一日16時間も起居している自分の生活は、やっぱりオカシイと思っていたのだ、やっぱり寝るのを趣味としていた(プロフィールへ)のは間違いがなかったのだと納得して安心したものである。各章で「○○なんて」というように組み立てされているが、その言葉に続く文言は、「たやすい」であろう。が、さらに続く文言があるのであって、それは読者自身が推察するべきものである。それは完全に読者に任せられているのである。

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2009年4月26日 (日)

「山々だ」

31631217  眠くてしゃあない。老眼や眼鏡の不都合のために、読書すると目がしょぼしょぼして、凝視してもよく見えない。倦怠感もあって直ぐに眠気を催す。したいことが山ほどあるのだが、休みともあれば横になって正体もなく眠りこけるのが習慣である。今日は、狐の嫁入りの天候の中、早朝から側溝・河川のドブさらいをする。近隣総出の田舎行事である。それから、図書館に出向いて、この本と『楽しい気象観察図鑑』と『生きるなんて』を借り出す。

 暇な息子は、「お出かけしよう」と何度も訴えるので、山や博物館へと誘うが、志向が全く異なることに嫌気を差してか(当り前か。笑)、「お父さんはいつも山、山、山で、山々だ(その程度でおもしろくないという表意であろう)」と嘆かれてしまった(笑)。やむなく、嫁はんとトイ○ラスに出かけた所である。何だかベイブレードで頭がいっぱいの様である。当の私は、寝たり起きたりでダラダラと過しているが、実を言えば、頭を悩ましている事柄があるであるが、差し置いている。こちらはこちらで、これに頭がいっぱいなのである(笑)。本当に冴えない一日である。

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2009年4月18日 (土)

後世への責任

000_0739  定額給付金を当て込んで息子のキッズ・バイシクルを購入したので、近隣まで試乗サイクリングに足を向けました。絨毯のように展開する桃畑を、道端や陸橋上から眺めながら、春の午後の心地よい空気を吸いました。行き過ぎる車を哀れむ視線に、彼らは気が付かないだろう。助手席に座る少女が、息子のサイクリング姿を左折しながら凝視して行き過ぎました。便利さは確かに安逸な生活を保障するが、人間は自然と共に生きていることを忘れてはならない。そのことを少年少女時代に体験した我々世代は、殿(しんがり)の世代として、そういう生き方を後世に伝えるべき責任が厳然としてあるのではないか。例えば、どの局もイチローの記録更新がトップニュースになっていたが、忌憚なくいえば辟易する。野球に関心がない者にとって、彼のことなどどうでもよい。情けなさや怒りさえ覚える。彼には羞恥心がないのだろうか(瑞々しい桃を食するとき、生産者たる老農の姿を想像できるのか否か)。小林計一郎先生の『善光寺平』(1967年角川文庫)を読了して、そういう思いが切々とこみ上げてくる。「戸隠」と聞いて想起されるのは、岩戸の神話と蕎麦であろうが、そもそも蕎麦の名産地は、蕎麦しかできない冷涼なやせ地であることが大概である。よくある蕎麦のグルメ巡りや蕎麦に薀蓄を傾ける人間がいるが、笑止の沙汰と言わねばならないだろう。「人間の魂のふるさとは雑踏の大都会ではなく、このような山里であるかもしれない」(p226)という文言や(小林)一茶への淡々とした記述を読みながら、胸の潰れる思いがしたのである。

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2009年4月15日 (水)

小林計一郎先生

P10001991  大分、古い本である(1967年出版の角川文庫)。だが、「観光ブームである。・・・しかし、風光の美しいところほど、住民の生活は苦しい」(p7)と釘を刺している。また、「この美しい自然は、そこに定住している人々にとって、別の意味をもっていることを、考えて見ねばなるまい」と仄めかして、「「山畑や こやしの足しに 散る桜」という俳(廃?)人小林一茶の句を紹介している。信州は、山国なのである。このことが人々の暮らしの基本であることを分かっていない人が多いと思われる。漁猟など、とんと縁のない信州にては、地勢を利用するしかないし、これを乗り越えようと進取の精神を保つしかない。ありきたりの気分では、信州では生きることはできないと思っていてもよい。この本を読んでいて、そういう思いを痛感した。第二に思ったことは、本書が単なる観光ガイドではなく、歴史や資料まで立ち入って言及されていることである。それが本の深みを醸成している。戦争体験者である著者の、松代大本営の件(くだり)での感慨は想像するに然るべきである(p143)。余計なことを述べず、淡々と長野盆地を紹介する著者のスタンスに感銘する。とかく長野県人は、「信濃の国」の歌詞に表象されるような、または万歳三唱されるような狷介、壮語、自賛、睥睨などの悪弊に気が付かない。それに対する滲み出る批判が垣間見えるのである。掲載されている写真も、人々の暮しと表情が活写されていて懐かしい。著者のおもねらない研究姿勢が窺われる著書である。先生のご長寿を願うものである。

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2009年4月13日 (月)

陽春の信州

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 川柳将軍塚古墳への道すがらの一本桜。

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 峠越えをすれば、雪の北アルプスの山並みが。

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2009年4月10日 (金)

しだれ桜

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 穴場の花見スポット・長野市光林寺にて。自信作スナップ。

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 しだれ桜としては天下一品。同寺正門前。

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2009年4月 7日 (火)

信州の春は4月

000_0681_6  瀬戸内の春はイカナゴに始まるが、信州ではやはり梅である。里山の軒先や畑には、今では少なくなったとは言え、必ず植え付けられて梅漬けに転用されるのである。出かけると、北アルプスが荘厳に顕現しました。ゴールデンウィーク頃までは、春の風物詩である雪形(農事暦の役割。白馬岳が有名)を楽しめる季節である。長野県は、北米プレートとユーラシアプレートが交差するフォッサマグナが陸化し、太平洋プレートの移動によって山の隆起がなされたとされる。何百年万前と推定されている。だから、活断層(地震)と化石の宝庫である。気候は、「地域差の大きい内陸性気候」である。南信では桜が開花でも、北信(東北地方の気温に相似し、山岳は北海道のそれと相似)はつぼみである。殊に、北信では短期間に梅、杏、桃、桜、林檎などの花が咲いて、百花繚乱である。寝るのが趣味であるこの私でも、この時期になって漸く、素足で布団の中に潜り込むことができる(笑)。やっぱり冬は寒いのである。だから、春は待ち遠しいのであるが、農・菜園作業は急忙になるのである。田舎暮らしの人気は信州が一番であるが、半年は寒いと覚悟していなければならない。この日曜日にも、自分でスノータイヤを替えたばかりである。

 WBCや北朝鮮の「ミサイル」騒動を始め、戦争体制準備とナショナリズムとが満開である。ニュースですら見る意欲を失いつつある。危険な途を歩みつつあるのではないか。寝ていられるのだろうか(笑)。

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