« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月

2009年2月28日 (土)

邯鄲の夢

20090224105157 冬は結構好きなんですよ。寒いですけれどね。荒涼として静かに佇む湖面。そんな訳で、温泉に向う車を止めて、携帯カメラをパシャ。楽しく愉快なことよりも、こうした場面で気持ちが落ち着くのは寒地育ちだからだろうか。庭には、引っ越し祝いで植え込んだ桜の芽が膨らみ始めている。

 息子は、今日からサッカークラブの体験入団でお出かけ。その後、ボールやら、ウェアなどの用品やらの買い物で、またお出かけ。既に、スイミングスクールに通い続けているのだが、これに加えて、行きたいという本人の希望に副って嫁はんも動く。その間は、私はグーグーと惰眠を貪る(笑)。スポーツニュースを視ると、この所野球やゴルフの話題が多い。全然関心がない(キッパリ)。大嫌いなスポーツである。無駄に年を重ねた所為かも知れない。健康志向も余りない。また、小学校では英語が教科となるらしい。「なるらしい」というのは、学年便りを一瞥するだけで、何の教育的配慮がない親だからである。子どもの教育に熱心な親は多いらしい。だから、水泳にサッカーに塾にと、ますます子どもは忙しくなる。余計なことを考えていたら、当の私のように、シガナイ人生に終るからである。しかしながら、人生って人が生きてゆくことであり、そのための食い扶持方法を教えることが義務教育であろう。皆が皆金持ちになれる訳でもないし、宇宙飛行士になれる訳でもない。小学生に、いかに人がお金に振り回されているのかを教えないのも、宇宙飛行士になるような夢物語を教えるのも、日本語も覚束ないのに英語教育を導入するのもいかがなものか、と思う。そういう価値観はどうにかしてもらいたい。兎に角、ストレス解消には寝ることだ。だから、午睡した一日でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月26日 (木)

『認知症を生きるということ』

32191498  今日もGさんは、「あれえ、どうするだいやあ」と呟いている。ミカンが付いていないので不機嫌そう。「ごはん、食べたかやあ」と何度も尋ねる。寝床でも、どこか不安そうに目が空を走る。常に明るいGさんであれば憎めないことではあるが、妄想・幻覚、暴言・暴力、徘徊行動などの周辺症状(BPSD)が顕著な認知症の人であれば、周囲と軋轢を来たし、家族介護であれば、惨憺たる思いで日々の生活を送ることが多い。認知症は、早期発見・早期治療が原則である。しかも、病気(脳の機能が少しずつ障害されていく病気。詳しくは、介護・医療の先進地と思われるこれを参照)であるが、病気だけではない。この本のサブタイトルにあるように、認知症の治療とケアの最前線を知ることで、そのことは理解できるだろう。だが認知症の人は、体が動ける人が多いので低い介護認定になり、事業主にとってはあまりカネにならない。介護保険制度そのものが身体介護中心なので、認知症対策の視点が欠落している。また、介護現場でも重度者のケアに追われている現状である。介護の社会化を唱えるならば、家族介護が多い現状の中で、認知症患者の家族の負担を軽減するようにシステム化しなければならないだろう。認知症の人は、「いまの時代の生きにくさを、身をもって示してくれている、最先端の存在」(p256)である。社会や生きる意味を問う存在である。ここでもまた、傾聴やコミュニケーションを先ずとることがケアの基本であり、土台である(第9章)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月20日 (金)

自己責任論批判の書

32162974  1970年頃、若者の政治的熱気のある時代でも、「しらけ」とか「三無主義」(無気力、無関心、無責任)などと、大人の冷やかな目線があった(中小企業の健全経営の目安として、無借金、手形無発行、雇用ゼロという三無主義もある。笑)。若者の政治的無関心は、投票率の低下という形で具現してはいるが、無関心ということではなく、興味がないだけに過ぎないと思っている。小泉ニセ改革で騙された国民も、この所の金融恐慌や雇用不安などの情勢にまともな感覚を取り戻しつつあるのかも知れない。潮目が変わって来ているのである。コイズミなど既に賞味期限切れになって腐敗を極めている。この本を殊更目新しく感じることもないが、基本的には「自己責任論」批判の書であると受け止めた。「あんなやつは死んで当然」「貧困・失業なんて甘えている」「格差があるのは当然」「何でも社会の所為にするのは間違っている」など、コイズミが撒き散らした個人責任論は、今ではあまり耳にすることが無くなっているが、声高に論じていた人間が黙ったに過ぎない。ある意味では、こうしたインチキな個人責任論に対置されるものが政治である、と言えるのかも知れない。なぜなら、「世の中に何も問題がなく、現状のままでよければ、そもそも政治という作業は必要ではない。現状に問題があると思うためには、それを正すためにこそ、政治は必要である」(p97)からである。搾取と収奪の中で、貧困と失業に喘ぐ若者に、絶望して自暴自棄や諦念の陥穽に嵌まらないように10のルールをマニュアル化している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月12日 (木)

家族ゆるり温泉三昧

20090211165017  昨日は、家族が揃って休みなので、用事を終えて午後から日帰り温泉に出かけました。雪の花が舞い始め、見晴らしはそれ程でもないが、今の時期に快晴ならば、息を呑むほどの絶景を眺めることができる温泉施設です。泉質は、湯沸しで(掛け流しだからといって良いとは思えない)加温・循環ですが、メタケイ酸豊富ということですから、由布院のそれに近いのかも知れません。建国記念日などという恣意的な休日はそれとして、どこの日帰り施設も混雑が予想されるので、山道をうねりながら辿りました。中途の湖は氷結して静謐に佇んでおりました。人影はないが、時折車とすれ違う。これでも市内なのです。入湯してみると数人。嫁はんによれば、女湯は独占状態ということでした。持ち込みもよし、十割蕎麦やうどんなどを注文するもよし。山里の公共浴場という感じで、ゆっくりと浸ることができました(ところで、沖縄では湯船がない、もしくは湯船に浸かる習慣がない。シャワー浴です)維持費が高騰し、経営は楽ではないらしいが、平日の休暇場所としてはもってこいの穴場です。だが、嫁はんに断りなく一人で湯治にきたら怒られるだろう(笑)。息子はというと、普段とは異なって、ゆるりとした感じにつられて大人しい。帰途の山道を別の市街へ抜け降りて、和風レストランで、たっての願いという蕎麦とシシャモを腹に収めて大満足の様子。オヤジのような息子の風袋を眺めながら、内心苦笑してしまいました。車中で疲れから眠りに入り、そのまま寝床についた息子でした。息子にとって、幸せな夢を見ることのできる一日だったようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 9日 (月)

ウェブ、若しくはケータイ

31879740  頻繁に利用している図書館には、それ程場所を占めているわけではないが、目立つところに、児童書コーナーとヤングアダルトコーナーがある。後者の棚は訪問するたびに一眺めする。これから人生を歩む訳ではないが(苦笑)、それでも興味深いタイトルが並ぶので立ち止まる。そして、手に取った本がこれ。インターネット上に広がる情報の世界であるウェブ、これはあくまでも道具に過ぎない。情報の共有のために至便ではあるがあるが、嘘とデタラメなど、総じてカウンターナレッジが大半を占めるために、無駄に時間を浪費してしまう。新たなコミュニケーションの手段としても、雑多で反動的な所見の者が多く、これもまた予想以上に選択の余地が無い。近頃、携帯電話の義務教育校への構内持込を禁止することが話題になっている。今や、携帯電話は通話機能としてではなく、メールや音楽・ゲーム・カメラ機能もあり、ネットに接続できる情報端末になっている。携帯電話ではなく情報端末としての「ケータイ」になっているのである。教育環境やネットいじめということもあって、文部科学省や大阪府の橋下知事がしゃしゃり出ているが、「そういうあんたらは職場や仕事でケータイを使っているのではないか」などというツッコミはなしで、彼らの魂胆は碌なものではない。むしろ、「ケータイなど使っていると、こんな人間になってしまうぞ」という方が的確だろう。こういうことは、教育現場で解決していく問題なのであって、行政が上段からあれこれ指導したり、人気取りの手段としてはならないのである。それよりすることがあるやろ、という見方もある。いずれにせよ、「人間の仕事は、考えることにある」(p134)というスタンスから、ウェブと付き合う注意点やスキルを知るための入門書として役に立つと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 4日 (水)

田舎暮らしの厳しさ

32065773 『田舎暮らしの本』という雑誌がその筋では知られている。「脱都会派の快適ライフスタイルマガジン」という位置付けである。かつては結構な値段であったが、今では安く購入できるようになった。自給自足だとかスローライフだとかペンション・ベーカリー経営だとか、定年後の無謀な田舎暮らし願望は、熱病としか思えない。だから、丸山健二氏はこのような輩に冷水を浴びせかける。田舎は「犯罪」の巣窟である、という章立てを読み進めたら、田舎暮らしを夢見る自分の愚かしさに気付くのではないか。そんな桃源郷など、この日本にある訳無いのである。『田舎暮らしができる人、できない人』という本では、農業的価値観=土地に根ざした、毎日の労働と生活から得られる実感をもつ覚悟を提示されているが、偏狭な郷土意識、理不尽な村組織と因習、粘着的な隣人関係、ルーティンな日々など、思いも寄らない暮らしが隠蔽されているのである。この本のタイトルは、そんな表層に有頂天になっている団塊世代に対する真っ向からの批判にもなっている。また、さまざまな世評批判も展開され、幻想としての田舎暮らしのイメージを破壊している。だが、田舎暮らしそのものを否定していると勘違いしてはならない。「現実の(おぞましさの)なかで喜びと感動とに巡り合えることが可能な田舎暮らし」(p180)のあることを逆説的に示唆しているのである。田舎暮らしは徹頭徹尾安直ではないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 2日 (月)

忽せない時代

32174809  共同体の崩壊、インターネット・メディアの普及、経済のグローバル化などによって、世界には嘘と擬似やガセネタ(これを総称してカウンターナレッジ=反知識)で溢れかえっている。特に、人間は合理的に行動し、富の平準化が実現するという新自由主義は、この間の経済恐慌によって全くにデタラメであることが暴露された。ネットを検索すれば、ニセ情報や右翼・反動のブログが蔓延している。この本を上梓した出版社のブログでも、とんでもないブログを書評紹介して得々としている。だからと言って、未知なものを否定するものではないが、少なくとも検証可能なものを基準として、とりあえず世界を見て取ることは大切なことだ。反科学なものは即座に否定されるべきだ。反証主義のカール・ポパーは、未だに勢力を保持しているが、反証そのものや反証不可能なものとの境界の不明など、何らポパーの言質が証明されていることでもない。不明なものはアポリアとして判断保留すればいいことだ。テレビを見ている人を観察すると、画面の中では笑っているが、黙して視聴している人がほとんどである。このことは何を意味しているのか。テレビが洗脳手段化していることと批判精神の枯渇である。忽(ゆるが)せない時代ということである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »