2024年2月27日 (火)

人心一新の時代

31115047 雨が雪に変わり、凍土は固く閉ざしている。待春の時期で、本棚の『新版 農業の基礎』を何度も取り出して振り返っている。20年も前の出版物で、以降の農学も急展開している。慣行農法においてはスマート農業が推奨されるが、21世紀の小規模・家族農業もまた注目されている。地球温暖化が問題にされるが、それに関連する農業・食料・飢餓問題も喫緊になっているのである。農業従事者が激減しているにも拘らず、テレビでは芸能人やお笑い芸人のグルメ番組がトレンドになって、高蛋白・油脂過剰・糖分過多の食事を助長しているのである。株価最高値に浮かれ、政治の腐敗と戦争加担には無関心の有様である。人心一新を図らなければならない時代となっているのである。
 少し前になるが、地元新聞である「信濃毎日新聞」7面(1月14日)で、マルクス・ガブリエルの寄稿が掲載されている。多分、共同通信からの配信だろう。それは、「反ユダヤ主義拡大の危機」と称して、「ハマスの思想的なわな」にかかってはならないという警世である。しかしながら、これは事実誤認である。シオニズムに駆られたイスラエルは一貫してパレスチナ人から土地を略取してきたのである。なぜハマスがパレスチナ人に支持されているのかを考えてみたらいい。また、ハマスを育てた右派リクードであるネタニヤフ首相の思惑にも深慮しなければならない。パレスチナ問題などではなく、「イスラエル(と裏で画策するアメリカ)問題」なのである。マルクス・ガブリエルはまた、「イスラエル軍が大量虐殺を計画したり、政府がそれを企図したりしていないことは明白だ」と語っている。彼の言動は、まさしくイスラエルとアメリカの言い分と一致しているのである。パレスチナ人から土地を収奪し、シナイ半島に追い出して利権を強奪するのが狙いなのである。歴史学者ハラリと同様に、残念ながら、愈々彼の哲学を疑わなくてはならない時期になっているのである。

| | | コメント (0)

2024年2月16日 (金)

ポロポロ

71aepucrcql_sl1500_ どこで田中小実昌を知ったのか覚えていない。戦争関連の著作を読み耽っている過程で知ったと考えられるので、とりあえず手にしてみたのである。タイトルの『ポロポロ』は、劈頭を飾っている小説というか、私小説である。但し、少年時代にテレビで、禿頭の彼を何度も視たことがある。戦後二十年前後で、世情はまだ戦争の名残があった時代である。明治・大正生まれの人々が健在であり、彼らの生態を直接触れることができたのである。戦後高度経済成長の端緒の時代であり、激動の時代に生きた人々の生き様を直に接触する最後の世代となってしまったのである。この時代は特変する人士が排出する時代であり、現今の気を遣う世代とは全く異なる。個人の体験でも、酔漢の大工が暴れて隣家が仲裁に入ったり、お互いに貧乏でお金の融通やお裾分けをしたりするのが当り前の時代であり、人々がお互いを補い合う共同体がまだ存在していたのである。戦争はここまで影響を与えていたのである。田中のような人間もまた容認する社会だったのである。彼はバプテスト系独立キリスト教会の牧師の息子である。19歳の時に、初年兵として中国大陸での戦争を幾多体験している。
 「異言」とは、広辞苑的には、新約聖書の「使徒行伝」などに記されているように、「(キリスト教で)聖霊に満たされた人が語る理解不可能なことば」(γλῶσσα )である。本義は外国語であるが、パウロは異言の誤用を戒めている。後代、異言は神の賜物として広義として多用され始めて誤解されてもいるのである。田中小実昌は、青少年期に父などの「ポロポロ」を日常的に接して育っている。彼は、「苦しみながら祈っているときに、父はポロポロが始まった」(p30)と語り、祈りを突きぬけて、「非理性的なみにくさに、おそれ、おののき、不安になったのではないか。」(p31)と描いている。ここに言葉の問題が現出する。「言葉は、自分の思いをのべることしかできない」(p13)のである。「ボカーンとぶちくだかれたとき、ポロポロははじまる」(p15)と換言してもいる。ヨブが神に要求する自分(人間の物語性、p169~170)を打ち砕かれたように、「祈りの言葉を失ってるのにも気がつき、失った言葉をとりかえそうとする(時に)口からでるのはポロポロばかり」(p31)なのである。彼にとっての「ポロポロ」とは、祈りを突き抜けた呻きであり、神の賛美だったのである。それは、「クリスチャンはクリスチャンでいいではないか。・・・ただのクリスチャンではいけないのか。」(p29)という表明に如実に示されているのである。

| | | コメント (0)

2024年1月 8日 (月)

究極の災害・人災

51igu3jeril_sx218_bo1204203200_ql40_ml2_ この所、長らく積読していた図書館の廃棄本を読み進めている。彼は戦後の短歌界を一新したアララギ派の歌人であるが、余り評価されていないような気がする。影響を受けた歌人として、知っている限りでは、道浦母都子(昨年で信毎歌壇の選者から退いたことが残念である)と荻原慎一郎である。実感に根付いたリアリズムと生活者からの政治意識という点で、石川啄木にも似ているのではないか(他方で、石川啄木は典型的な遊び人でもある)。歌は、このような作者の屹立する表出であらねばならないという思いである。もう少し、この本を読み進めてみよう。

 年賀状の中の一枚に、「熊も政治屋も駆除が必要ですね」という添え書きをつけた先輩がいた。彼は日大全共闘の闘士であった。今は息子に譲りながら会社経営をして、狩猟を趣味として(彼から始めて『狩猟界』という雑誌を知ったのである)、その関心からの付言と思われて、内心一笑したのである。年末の自民党の裏金問題と、年始の能登地震と飛行機同士の衝突事件という人災と災害が続いていることに、人々は新年早々不安の渦中にあるにもかかわらず、政治の退廃はとどめがないのである。政治は人々の生活に直結しているにもかかわらず、人々はそうした教育を受けずに洗脳に囚われているのが現実である。政治は、忌避されるものでなく最も論議されなければならない問題なのである。知識人は何のために仕事をしているのか。世界の戦争の惨禍・惨状をいつまで傍観しているのか。無能な政治屋の跋扈という日本の政治状況(究極の災害・人災)をいつまで座視しているのか。知識人の決起が待たれている、2024年の冒頭の有り様なのである(リーフェンシュタールの「服従的な空虚」とアーレントの「悪の凡庸さ」)。

| | | コメント (0)

2023年12月 9日 (土)

批判と変革の哲学

34205002 そしてプラトンである。京都大学の哲学科の西洋古代哲学史専修(西田幾多郎を始めとする純粋哲学、いわゆる純哲=哲学専修とは異なり、多少の確執があったと思う)は、一時期(今でも?)「プラトニストにあらずんば(西洋古代)哲学徒にあらず」という学風であった。この経緯は、動画「おこしやす!西洋古典叢書 イントラダクション」で國方栄二(以下敬称略)が言及している。田中美知太郎に続く藤沢令夫、そして中畑正志。今や研究陣が系統的に継続的に出揃っていると言えるだろう。だからの故の西洋古典叢書である。以前、中畑氏の著述についてブログ投稿したので、念願の『はじめてのプラトン』を、繁忙の中で遅々として進まず、漸く読了ができたのである。
 彼のスタンスは、ご教説を甘受することではなく、「プラトンの著作を読む目的は、ただプラトンを正確に解釈することではない。・・・問いを発し、考えることこそプラトンが望んだことである」(p42)に尽きる。その意味では、プラトンはソクラテスの対話を中心に記述して、常に挑戦的なのである。先ず、「ソクラテス問題」である。それは、ソクラテス自身の著作がなく、周囲の人々がソクラテスについて論じていて、どこまでがソクラテスの思想と実像なのかが不明という問題である。それに、大半のプラトンの著作はソクラテスを主人公にした『対話篇』であり、その境界が不明という問題もある(イエスとパウロとの関係に相似しているだろうか)。しかしながら、プラトンは師の哲学を継承して、「それを理論的に深化させ、他方で社会的な実践のかたちへと展開した」(p72、p121、 ソクラテスープラトンの哲学宣言)のである。「魂への配慮」と「知と真理への配慮」となって、魂の比喩とイデア論に結実しているのである。これらはよく誤解されるデカルト的「身心二元論」ではなく、交錯してプラトンの哲学となっているのである。彼がプラトンの哲学を「批判と変革の哲学」(p4)として規定するこの新書は、一貫しているのである。後半の終わりに、人間の営みの全体への批判と変革の哲学であるとの繰り返しの強調は、「彼のプラトン」を如実に指示していると思われる。
 今春、定年退職された彼には、①文献学的に、アリストテレス全集『形而上学』翻訳(未刊)とその成果が期待される。②プラトン哲学を政治的に誤解釈するゲルマン(親ナチス的)勢力とアメリカン(ネオコン的)勢力(両者とも歴史性の欠如、p235)への批判を徹底してもらいたいものである。この混迷した時代の中では、緊要な課題と思って彼に期待しているのである。

| | | コメント (0)

2023年11月21日 (火)

人類の試練

2020111509590000_20231121225401 花が枯れ、小春日和があっても、朝晩の冷気が冬の到来を予感させる季節となった。吊るし柿を干したり、年末年始を準備するメモ書きが多く追加されて、休日は予定で埋められている。そのためブログ放置となっている。と同時に、生来の怠け者の手前には、心配事も増えている。

 ハマスによるイスラエル攻撃に反撃する、イスラエルによる侵攻は、ガザを消滅させてパレスチナ人を一掃して、ガザ沖の天然ガスが目標のようである。ユダヤ教の原理主義者(シオニズム系統)が跋扈して極右のネタニヤフ政権が1年前に誕生しての今回の事態となったのである。若い頃に旧約の詩篇とヨブ記、イザヤ書とエレミヤ書を読み込んだのも、小学生の時に「十戒」という映画が格安の夏休みの推奨映画としてド田舎の映画館で視た影響もあっただろう(なぜこんな映画が推奨されたのかは今以て分からない。娯楽が少なかった時代の所為なのかも知れない)。
 旧約聖書に執心することは、原理主義者の温床になると思っている。中沢洽樹先生に直接講義を伺ったこともあり、ヘブライ語を齧ったこともある。聖書は基本を踏まえて現代的に解釈しないと原理主義者になることは必定である。若い時に旧約重視の聖書読みには疑問を感じていたのも事実である。大事なのは、イエス=キリストが律法主義者を徹底的に批判したことである(マタイ、ルカ)。パレスチナ人を動物表現することも許せない。旧約原理主義者たちの怖ろしいほどの思惑にも驚く。ナチスドイツがユダヤ人にホロコーストを強いたように、ユダヤ・シオニズムがパレスチナ人を掃討・虐殺(genocide)しているのである。同じことが繰り返されているのであり、ある意味ではP.レーヴィの遺言通りなのである。この件に関して、歴史予言学者であるハラリの評価が失墜したと思う。B.ゲイ〇などに称賛されるようでは底が知れていると言わねばならない。一体、何が誰が地球と人間を破壊しているのか、と問わなければならないのである。

| | | コメント (0)

2023年10月10日 (火)

新しい時代のとば口

34222390 「農業は儲からない」、「こんな苦労は息子たちには継がせたくない」というのが農業従事者の率直で痛切な声である。対して、(都会の)消費者は農産物の価格上昇に悲鳴を上げている。よく考えると、食料の殆どは工業製品となっていて、人々はそれらを食しているのである。一方で農業従事者は近年200万人以下に激減して、他方で世界的に慢性的な飢餓に直面している人々がいて、こども食堂やフードバンクなどに見られるような食料不安の只中にいる人々がいるのである。気候変動や食料問題よりも、戦争や争闘に明け暮れて軍需産業に依拠しているのが世界の首脳どもなのである。生身の人間を「人材」とし、食べものを儲けるための「商品」となった理由が近代の政治経済システム(資本主義=経済成長という名の下で金儲けが続く経済体制)であり(p5~6)、歴史を遡及して全面的に暴露した本が『食べものから学ぶ世界史』である。ジュニア向けの良書である。
 資本主義は産業資本から金融資本に集中してマネーゲームと化している。市場主義経済は従来の共同体システムを破壊し続けている。さらに、情報化社会は、情報がカネとなって、M.フーコーが論及した監獄社会となっているのである(無料アプリの利用で個人情報が筒抜けとなっている)。
 テレビのグルメ番組を眺めると、日本人の容貌が変化していることが分かる。高蛋白と油脂過剰と糖分過多のためにブクブクしている。ダイエット産業が繁昌する筈である。田舎の職業高校出身でまごまごしていた頃、有名高校出身者の容貌は、頭脳にエネルギーを消費している所為なのか、引き締まっているように感じたが、現在の大学生はどうなのだろうか。日本の政財界では、東大閥と慶大閥と早大閥が主流となって支配しているようだ。忖度という言葉は本来いい意味であったが、今では悪い意味での流行となっている。ジャニーズ問題もその一端である。副題の「人も自然も壊さない経済」(「命のための経済」p169)を望む人々(特にジュニア世代)は、この著書を読んで判断してもらいたいものである。我々は思考を取り戻して、新しい時代のとば口に立っていることを自覚しなければならないのである。

| | | コメント (0)

2023年9月12日 (火)

民衆は忘れない

20210511150318269656_03b5dfc36cb884a9a56  『日の丸は見ていた』の続編である。少国民とは戦中の国民学校の小学生のことである。櫻本のこの本は、戦時下の少国民の文章、戦時歌謡、戦中詩へと話が進む。彼は幼稚園を経営していた経歴もあってか、児童文学者が徹底糾弾される。櫻本を含む少国民の怒りが爆発しているのである(p202)。特に、「大人は適当な言辞を弄して少国民を錬成し、少国民はひたすらその言辞を信じて、『大君の辺にこそ死なめ』と煽動された。そんな大人の先頭陣に、少国民詩の文学者が位置したことを忘れてしまったら、少国民よ、浮かぶ瀬もないだろう」(p248)と訴えて、「少国民詩の呪縛力は、その頂点で、『後につづけ』全員特高隊員である、というおぞましい正体を露呈した」(p275)と解明している。音楽の教科書などにも、戦争協力した山田耕筰、堀内敬三、信時潔、中山晋平、古関裕而等の作曲家が記憶されている。現代では、阪神と早・慶大の応援歌はその例である。気持ち悪いとしか言えない。戦前も戦後もなく継続しているのである。ビッグモーターと損保、ジャニーズ(吉本興業)とマスメディアとの癒着は、当然の如く、剔抉されていないのである。戦後の経済成長も、ある意味では、世界情勢の特異性もあって特攻精神で実現したとも考えられる。戦後の戦争責任はその下で曖昧とされたのである。
 政治分野でも然りである。自民党の二世・三世議員の跋扈によって、相変わらず収賄、殺人、便宜供与など、戦前の政党政治の腐敗は天皇制ファシズムとして敗戦を招き、戦後もそれが継続しているのである。将来の世代に何の責任を取らないことに怒りさえ覚える。余りにも腐敗と退行のために、最近はニュースも新聞も聞いたり、開いたりする意欲が減退し、自分のなすことに集中するようになっているが、これではならないと思い直す始末なのである。宗教分野でも同様なのだが、真の野党勢力の奮起を期待したいものである。その際に重要なのは、些末な差異に拘泥することなく、統一戦線を組むことである。そして、戦線内の相互非難をしないことと、民衆を鼓舞することなのである。

| | | コメント (0)

2023年9月 5日 (火)

自己を裁断できるか

41qtxgujcwl__sx373_bo1204203200_  休日の一日、午前は読書していたのだが、部屋の温度は、冷房なしで30度を超していて汗だくであった。やむなく昼食後は午睡に突入して、爆睡状態が続く。体力が落ちたものだ。
 櫻本の『日の丸は見ていた』では、日本本土の初空襲によって殉職した少国民をめぐる記述から始まり、詩人(文学者)の責任追及と乳・幼児集団疎開まで展開される。特に目を引いたのが文学者の羅列であった。前回のブログ記事以外にも、武者小路実篤、野口雨情、草野心平、サトウハチロー、高浜虚子、佐々木信綱、室生犀星、中村草田男、土屋文明、村岡花子、金子光晴、石坂洋次郎、佐藤春夫、亀井勝一郎、柳田國男、小林秀雄、清水幾太郎、三木清、吉川英治、久松潜一、三好達治などが列挙される。これらの著名文化人は、私の小・中・高の国語教科書でも標準的に学んだ文学者であり、戦時中の彼らの著述を探索すると、ゾッとする感慨である。久松潜一など、彼の角川書店の国語辞典を長年愛用していたものである(旧仮名遣いが併記されていて至便だった)。1960年代は、今から考えると、戦後20年程で明治・大正生まれの人々が存命であって、戦争の感覚はまだ人々の日常にあったのである。実際、幼少期の自分は、炬燵で寝ころびながら「のらくろ」の戦争漫画を楽しみ、「戦友」のテレビ番組を興味津々に視聴し、戦艦武蔵のプラモデルを製作して兄の月刊『丸』を盗み読みをしていたのである。人々は生きるのに必死の思いの時代であったが、幼少の自分は牧歌的に育っていたのである。
 ところで、戦時中の櫻本少年は、他の「少国民」同様に、立派な皇国少年だったのである。小学四年に『朝日新聞』長野版(1943年、昭和18年)に、「山本元帥をしのんで」という愛国作文が掲載されたとの事である。「当時はそんな時代だった」という言い訳は、多少は理解できるが(恐らく、自分もまた皇国少年になっていたことだろう)、それをもって被害者面をして居直ることは罪悪なのである。櫻本はさらに、「問われなければならないことは、そのような戦後を黙認した私たちの責任である」(p225)と裁断している。彼は健在であり、その問題をライフワークとしているようである。動画(家永三郎が最後の方で登場する)もブログもある。

| | | コメント (0)

2023年8月22日 (火)

「新しい戦争責任」

2023081706270000  酷暑である。清掃のおばちゃんが「昔は30度を超すことは滅多になかったのに、今は35度が当たり前になって弱ったもんだ」とタオルで汗を拭っていた。実際、蝉の鳴き声は少ない。野菜や果物の生育が不順である。物価とガソリン価格の高騰する中、政府は原発汚染水放出やミサイル共同開発を国会の審議もなく専断している事態なのである。戦争の足音がひたひたと聞こえ始めているのである。
 家永三郎は、その著書の中で「元来日本人には理想なく強きものに従ひ其日々々気楽に送ることを第一とするなり。・・・斯くして日本の国家は滅亡するなるべし」(p285)という永井荷風の日記を取り上げている。戦後の国語教科書でも、北原白秋、高村光太郎、与謝野晶子、斎藤茂吉、釈迢空(折口信夫)等の詩歌で彩られている。絵画や音楽の世界においても同様で、戦争責任など毫も触れられていない。後年それを知って、なあんだと呆れかえって失望したものである。戦争責任は戦後一貫として追及されていないのである。戦犯が日本の首相になり、靖国神社に合祀されて崇拝されるという無責任なのである。家永は戦争責任論を展開する過程で、同時に教科書裁判をも闘った自由主義者である。注目すべきは、戦後世代は戦前世代の生理的・社会的遺産を相続している訳だから、戦前世代の行為から生じた戦争責任を自動的に相続している(p309)という家永の持論である。敗戦から80年弱となって戦争体験者は鬼籍に入り、二世・三世の政治屋の政権による戦争国家化が加速しているのである。
 第二に、家永の戦争責任論は、「自虐史観」という俗論とは異なって、アメリカや旧ソ連の連合諸国の戦争責任をも論じているのである。日本国内に未だに米軍基地があり、アメリカの核の支配下にあって空域もまた米軍に占有されているのである。治外法権が当然視されて独立国とは言えないのである。米大統領が米軍基地から出入国することからも、アメリカの属国とみても間違いない。このことこそ「自虐」なのである。アメリカの世界支配戦略に追随していることは、「新しい戦争責任」をも現出することになるのである。それでなくとも、日本の特異的な経済的発展は、朝鮮戦争とベトナム戦争によって支えられていたのである。

| | | コメント (0)

2023年8月 1日 (火)

「新しい戦前」

2023072311200000  「新しい戦前」という言葉は、昨年末に「徹子の部屋」でのタモリの発言で話題になったが、家永三郎が著した『戦争責任』の中で、彼もまた使用しているのである(p17、1985年)。彼の転回は、1950年前後の冷戦の激化によるものであって、それまでの彼は、侵略戦争の傍観者であったのである。現今の軍拡増税路線と敵基地攻撃能力の保持は、戦前回帰の兆候ともいえるのだが、岸田内閣の最終目標が憲法改悪であるが故に、数段も「新しい戦前」に接近しているのは間違いないだろう。ウクライナ戦争において、表面的にはロシアによる侵略戦争であるために、御用学者と防衛庁を動員してのマスコミ宣伝によって、ウクライナ支持の世論に腑分けされたのである(左翼すらも)。すっぽり抜けているのがアメリカ帝国主義の世界支配戦略である。一部の左翼は、レーニンの民族自決権論を誤解して、愛国心を扇動するゼレンスキー政権を支持しているのである。帝国主義に対する闘いという原則を放棄してしまったのである。
 2000年代になって、ソーシャルメディアの一般的普及や検索エンジンの頻用によって虚実の乖離が進捗し、世界の二極化と格差が拡大している。チャットGPTの登場は、一段とそれを促進することになるだろう。もはや「止められない」(養老孟司)とも言われているが、そのような虚言は単なる科学信仰である。それならば、戦争(核兵器)は止められないし、地球と生物の破滅は止められないという言説と同じである。5月にはG7広島サミットが開催されたが、広島を選挙区とする首相によって(生まれも育ちも広島ではない)、広島を反戦・反核都市ではなく、アメリカの世界戦略の一環としての(核)戦争挑発都市=軍都として変質されたのである。アメリカによる二度目の核ボタンの持ち込みがあり、原爆資料館を視察してロシアの打倒を共々に一層誓ったのである。

| | | コメント (0)

«戦争(敗戦)を忘れる時代