2023年1月22日 (日)

メタバースに関するメモ

34379318  休養のついでに、図書館から拝借したメタバースの関連本を二冊、通読してみた。『図解まるわかり メタバースのしくみ』(A)と『図解ポケット メタバースがよくわかる本』(B)とである。ネットリテラシー(ネットを使いこなす能力)が著しく欠ける自分が、何故にWeb3.0時代のメタバースについて併読してみたかは、図書館での書棚にただ並んでいたからに過ぎない。ほんの好奇心に因るのである。ほぼ偶然の仕業なのである。以下の考察もまた、(もし)有用ならばこれを奇貨としなければならないことだろう。が、なかなかそうはゆかないのは自明なことだろう。でなければ、こんな古き良きWeb2.0時代のブログなんぞに固執していること自体、時代遅れも甚だしいのである。それまではPCやガラケーを使用していたに過ぎず、スマホ歴もほんの1年に過ぎず、それも検索中心に利用するだけで、記録・保存媒体としてガラケーに未だ依存している始末なのである。スマホになると、やたらにGAFAMなどの巨大テック企業に個人情報や位置情報の同意を請求され、収集されてばかりで、何とも憤懣やるかたない。プライバシーの危惧や監視社会の閉塞感を覚えるのである。また、消費動向を探られてビジネスの餌食とされるのがいやらしい。
 そこで主題であるが、Bによれば、メタバースとは「自身のアバターが活動できるインターネット上の仮想空間」(p8)であり、Aによれば、Web3.0とは「ブロックチェーン技術を活用した、インターネット上の新しい分散型世界」(p55)ということで、GAFAMを嫌悪して、できる限り分散しながら利用を手控える自分(個人)にとって、好都合な世界となるではないかと期待感はあるが、そんな「うまい話は世の中にはない」のである(笑)。一時期(小学生から)人気一番の職業としてYou Tuberがいたが、今や広告収入は激減してオワコン説が流れている。時代には栄枯盛衰が不可避なのであるが、それでも幾多のプラットフォーマーがWeb3.0の時代にも参入するのは見えている。鵜の目鷹の目の競争が熾烈になるばかりなのである。だから、メタバースの可能性としては、ゲーマーや分散型のSNS、暗号資産とNFTを利用したビジネスなどを期待する層への広がりしかないのではないか。現実的に考えれば、ゲームやSNSの利用で生活の4,5時間割かれ、メタバースで更に小一時間を割かれることになれば、人々は経済生活が荒廃して貧困を余儀なくされるからである(これも)。貧乏で一生を終えることになるのである。
 

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2023年1月16日 (月)

戦争前夜の日本

34086129 東アジア情勢は激烈となっている。まさに、戦争前夜である。アメリカ帝国主義の世界覇権競争に付き従って、日本の首相が、日米同盟の一層の深化(一体化)をアメリカ大統領ヤバイデンに誓ったのである。東アジアをウクライナと同様に戦場化するものである。日本軍(自衛隊)はその先兵として使嗾されるのである。敵基地攻撃能力保有と軍事予算倍増はその予兆である。アメリカの歴史は戦争の歴史である。アメリカを知悉している人なら、アメリカが世界中に戦争を仕掛けていること(戦争放火国)を理解している。アメリカの自由と民主主義とは、コカコーラとペプシコーラとの、どちらかの選択の自由と民主主義に過ぎない。既に、一線を越したと思ってよい。
 さて肝心な年始に既読したのが、『アフリカ経済の真実』という書物である。極めて明解であり、具体例が陳述された良書である。アフリカは「最後の市場」とされて、1980年代は借金財政で破綻して、国際的に構造調整政策を迫られ、1990年代からは市場経済に伴うグローバリゼーションの渦中にある。加えて、中国の進出もある。それらの歴史過程において、アフリカがどうなっているのかを知りたいがために、読み進めてみたのである。相変わらずの貧困と飢餓、紛争と難民である。列国の搾取と収奪に見舞われて「悲劇の大陸」となっているのである。
 (結論)「自らの国家のヴィジョンを描くこともままならず、グローバリゼーションの歪みでテロや紛争が生じ、そして人々が市場競争から取り残され、貧困と絶望のなかで手足をもがれたまま「沈みゆく大陸」ーーこれがアフリカの本当の姿なのである」(p20)
 これは、中国の脅威という名の下で、抑止力というお題目を唱えて日米同盟を一層強化し、アメリカ帝国主義に従属しながら戦争を仕掛ける自公カルト政権による日本の運命を暗示しているのだろうか。既に、ウクライナ戦争において立派に加担しているのである。

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2022年12月25日 (日)

2022年の年末にあたって

32909274  年末である。昨日は未明より20㎝積雪があり、直前に自前で冬用スノータイヤへの交換をしていたので安堵したものである。新潟の友人によると、50㎝以上ということで、新潟米の旨さもあるが、今後もまた友人たちへの雪害が心配の種である。湿り気のある雪の重さは尋常ではないのである。毎年の恒例であるが、図書館の廃棄・リサイクル本として、今の所、『見上げた空の色』、『幸運な医者』、『俺たちが十九の時』の三冊を頂く。年末年始はこれらの読書で過ごすことになる予定で時代小説家、小児科医、キリスト教作家である。
 防衛費の来年度以降の予算が膨大となる。本気で中国と戦争をするつもりなのか。まったく馬鹿げている。アメリカ帝国主義でも対中戦で勝てる見込みもないのに、補充すらできない日本軍(自衛隊)の戦力で太刀打ちできるとでも思っているのだろうか。むしろ、自国では、コロナ禍と少子化と経済低迷という惨憺たる三重苦の中で、軍備増強に自彊するのは異常としか思えない。ウクライナ戦争において、日本国政府は既に戦争に賛同しているのである。殺戮に関与しているのである。嘘に嘘を重ねる自・公政権によって、国民は屠殺されるとしか思えない。カルト政権を今すぐにでも一掃しなければならないのである。芸能・音楽業界でも同じである。年末年始のテレビ(ラジオでも)を観ても、例年のように、ダ〇ンや問題やサ〇ドなどの笑えない、政権迎合の芸no人やプロデューサーや歌手、アナウンサーや解説者などのオンパレードであって、頭が痛くなる。何でこうなったのか。一度こういった連中は、いっそ滅びた方が良いのではないか、とも思ってしまう。年賀状を作製しながら、一人一人にひと言丁寧に添え書きした一日でした。
 日々呻吟・苦闘している、まともな人々に、Merry Xmas! 

 

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2022年12月 2日 (金)

防衛論議のアホらしさ

34334660 何で今頃になって、この新書が再刊されたのか分からない。戦記物として文庫から新書で再刊されるのは、稀有と言わねばならないだろう。いずれにせよ、以降再版されることはないと思われる。戦後77年も経過して人々の記憶は薄れ、防衛費倍増を岸田内閣はうちだして、早速財源問題に終始しているようである。政府は既にウクライナ戦争への賛意表明をして、戦争に加担しているのであるから、より一層の戦争構築への企図(戦争国家化)と断じなければならないだろう。尖閣諸島の領有問題を除けば、中国との政治・外交問題は、ほぼないのである。つまり、中国と戦争する必要性は全くないのである。台湾(帰属)の問題は中国人民の問題である。にも拘らず日本政府は、南西諸島の軍事基地化を推進して、結果として沖縄を戦場化する目論見である。対基地ミサイル先制攻撃の構想があるようだが、(国会審議もなく、憲法違反の)米国製ミサイルを導入しての閣議決定は、原発54基のあることから、一瞬によって日本列島が焦土と化すのは目に見えている(ウクライナ戦争以上に、悲惨を極めるだろう)。また、日中共同声明によって対日戦争賠償請求権を放棄した恩義もあるのである。さらに、米国も畏怖する軍事大国中国と戦争をして勝利できるとでも思っているのか。中国敵視の軍事力増強は、第二次日中戦争の契機ともなり、何ら権益に資するものではないのである。尤も、共産党主導による強権的な中国政府に賛同している訳でもないことは、言わずもがなである。
 さて、『松本連隊の最後』である。歩兵150連隊の南方出征から敗戦までの記録であって、私見で断定しない、戦争賛美しないという著者の二大方針に従って、調査と聞き取りで構成された戦記である。それは戦争体験した作者にとって〈わが青春の墓標〉でもあった(p429~430)。概要は東洋経済ONLINEでも取り扱われている。要は、無謀な太平洋戦争の実相記録である。この本の解説者であって、実際に中国への従軍体験のある故・藤原彰氏が記述したように、「戦争が庶民にとって、名もなき兵士にとって、何であったかを正確に記録したものは多くはない」のであって、「犠牲者の大半が、戦闘行動による戦死ではなく、水死、病死、栄養失調死、餓死であったという事実」(以上p452、これこれを参照。これも)を知らねばならないのである。だから、政府・防衛省や歴史修正主義者による防衛論議など、アホらしいのひと言である。パンドラの箱に唯一残っていた希望すら失ってしまうからである。
 

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2022年10月11日 (火)

パンドラの箱を閉める

2022100316510001 稲刈りと稲架掛けを終えた畦で、ひっそりと咲く野菊と赤まんま(イヌタデ)である。冷涼な風や秋雨に時々花を揺らす。好きな風景であるが、来る冬に向けて備えを促すものである。新米の試食は10月下旬となるだろう。
 振り返ると、日本においてネオリベラリズム(新自由主義)が全盛となったのは2000年代だったような気がする。その頃は仕事で忙殺されていて、時代考証どころではなかった。時代は一気に変転していたのであり、それまで当たり前だった富の再分配の考えが否定され、詐欺と虚偽が当たり前の社会となったのである。その時登場したのがコイズミ=アベ内閣であったのである。経済的格差が助長され、協同性が破壊されて、いびつな個人主義(自己責任=自己負担)が跋扈したのである。支配的な価値観が競争原理と成果主義を包含して、金融資本主義が国民生活に浸透し、富と地位がエグゼクティブ(上級管理職)や政治屋に集中して、人々を一元的にグローバル支配してゆくあり方である。例えば、ネットやスマホはその具体的な支配道具である。金融と情報化が融合したのも幇助したのである。また、「平和」や「絆」や「開発」などの言葉も、正反対の意味へと変移したのである。「平和」は新植民地主義戦争やパワーポリティックス(権力政治)と核を含む強大な軍事力によって守られるという偏頗な思考が蔓延している。反共主義を唱える統一協会(勝共連合)というカルト宗教に嵌る人々がいるが、これは人間の協同性を否定するばかりでなく、それによって人類が発展してきたこと(人類史)を否定するのである。どう考えても可笑しい。金の亡者となり、思考が退化した人々と言わなければならない。しかしながら、この異常事態の中で、国家と資本主義は凋落の一途を進むのである。アベ銃撃事件は、急いでパンドラの箱を閉めなければならないことを人々に示唆したのである。

 

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2022年9月 3日 (土)

平和は創造するものである

07490846 『「日本」ってどんな国?』を斜め読みすると、その資料・データから如何に日本という国家が衰退していることが分かるというものだろう。しかしながら、衰退は大いに歓迎であるという立場である故、別にどうというべきこともない。自分が日本人であろうと、アメリカ人であろうと、中国人であろうと、ましてや国際的に(国際という言葉には不信感を抱いている)嫌悪されつつあるロシア人であろうと、どうでもいいことである。ここでも多くの日本人と見解が相違していることは自覚している。それで文芸春秋ムックの『戦争と日本人』である。思春期に読書の鬼と化し、昼休みと放課後に図書館に通い詰めた日々において、文学や哲学・思想の叢書を読破していたのだが、合間に読む雑誌は『文藝春秋』ではなく、『世界』や『展望』、そして『朝日ジャーナル』だった。当時、『文藝春秋』は唾棄すべき「良識ある大人」が読む雑誌であって、錚々たる右派文化人が寄稿していたのである。例えば、海軍上がりの阿川弘之や司馬遼太郎や田中美知太郎を覚えている。振り返れば、『文藝春秋』は昨今の右翼雑誌群と寄稿人士が重複しているのである。だから、時々瞥見する程度だったのである。彼らは戦争を遂行し、戦後も領導した連中であって、「神社本庁」や「日本会議」に蝟集しているのである。そして例の悪名高い統一協会(キリスト教会と全く関係のないカルト協会)と野合してきたのである。だから、社会の肉瘤たるアベの国葬には絶対反対なのである。政教一致の憲法違反はさることながら、失政を極めて国税を簒奪した悪党の国葬なぞ、笑止千万である。
 さて肝心なそのムックであるが、その山本五十六は「ずるくなくちゃ、国際的交渉は出来ないよ(笑)」(p11)と結局軍人としての自己に恃んでいる始末である。近衛文麿は、西園寺公望を自由思想家などと心酔しながら、政治的に軍部に追い詰められた無能である。また、国際連盟脱退を主導した松岡洋右は、その後「静養、静思、沈黙。これが現在の私の一切なのである」(p18)と戯言を弄しながら、「満蒙は日本の生命線」と称し、実際に満鉄総裁や「松岡外交」によって中国に介入して侵略戦争の道を拓いているのである。読んでいても気持ち悪い。文藝春秋にしても、記者としての批判精神が全く欠落している。呆れた連中である。多くの日本人が誤解しているように、平和を実現するためには、日本の被害に拘泥してばかりでは覚束ないのである。さらに平和は守るものではなく、創造する(政治的に勝ち取る)ものなのであることを再認識しなければならないのである。カルトの統一協会ですら「平和」という言葉を弄しているのである。国葬や憲法改悪や防衛費増大などと唱える右派勢力のように、覚悟もなく呑気に構えているようでは戦争は繰り返すのである。
2022090206020001_20220904175201  稲の受粉は終わり、稗取りとすずめ対策の段階である。東北と北海道地方は大雨の影響でリンゴや稲の被害は如何ほどだろう。心配である。当地では桃の収穫も終え、葡萄の採取時期となっている。これに稲の収穫が続く。6月中旬の田植えなので、9月中旬に落水して10月半ばに収穫となろう。稲穂の状態を見ながら水管理に専念しなければならない。農業は底の浅い怠惰な右ねじの人間には務まらないのである。

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2022年7月16日 (土)

現況の問題点

2022070317500000  参院選挙が終了した。与党の大勝である。物凄い戦争国家化であり、憲法改悪への道筋が立ったと言うべきである。戦後77年にして、この様(ざま)である。覚悟もない愚かな一部の国民がこれを選択したのである。アベ狙撃事件をして「民主主義への暴挙」という論調があるが、これは全く当たらない。アベ(だけでなく自民党)と統一協会との関係が浮上しているが、これは50年以上前からの因縁である。当時から原理研との闘いは、希望を抱いた大学入学者にとっては、悪魔との闘いとして喫緊な課題だったのである。隠然として、合宿への勧誘、ニセ大学新聞への加入・支払い、霊感商法・献金、家庭・家族崩壊など、洗脳が問題になっていたのである。その結果、自民党などの政権政党への影響と癒着と支配が浸透し、反共主義の協会方針が自民党の憲法改悪案と相似しており、アメリカ帝国主義よろしく、まさしく、政教一致の憲法違反となったのである(憲法第20条)。マスメディアの腐敗も戦前の歴史における教訓となっているのだが、これは最も重要な一つの指標であるが、看過されているようである。スマホの普及化によって、国民を分断して支配しているのである。そしてこの間の政教一致である。
 人知れず、急速に、何の検証もなく物事が進展している事態に対して、人々はその危機を感得するべきである。それは思考を奪われた保守の側でも同様である。人と人との心を通わせた会話は殆どなくなり、功利的で事務的となっている。都市はそれが当たり前になっている。テレビは国民の生活に関心がなく、つまらない会話やニセの笑いが溢れ、答えが初めから用意されている(画一化)。都市は無反省にビジネス志向が謳歌して、個人の思いは委縮している。都市の電力が、地方の収奪によるものであることも忘却している。また、そうした総合的視野をもった教育もなされていないのである。地方においても、学校教育は地域振興の為には何の役にもなっていないのである。教育は、中央集権化して連綿と地方を収奪することによって成立しているにも拘らず、立身出世と私利のために、医学部や東大(慶応大)志向に集約しているのである。自己の確立を放棄した人間が、国家権力に飼い慣らされているために、(高学歴な人間ほど)戦争に歓喜しているである。この事態が何となくおかしいという疑念を抱くべきなのである。この感覚なければ、ただ単に監視されるということだけでなく、加速するAIやBTによって、すべてが人類(ホモサピエンス)の改変と終焉から地球消滅へと向かう懸念があるのである(岡本祐一朗『いま世界の哲学者が考えていること』、『哲学と人類』など)。

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2022年6月18日 (土)

思考を取り戻す

34332887  参院選挙が実施され、長野県区は実質二者の争いになっている。自民党と野党共闘とである。参議院では野党が独占している全国的に珍しい選挙区である。自民党の候補はタレントであり、その昔、息子の小学校PTAの講演集が回覧されてそれを一瞥したことがある。その胡散臭さに辟易しただけである。醜聞が立って芸能活動をやめ、「長野県民への恩返し」などと称して、案の定、自民党から立候補するのである。信濃毎日新聞のインタビュー記事(18日三面)を見ると、やはり自民党の政策フォーマットをなぞっているのである。過去と未来を何も直視していないと思われるのである。対する立憲の候補は、TBS記者出身で主張は明確である(が、誤りも多い)。両者とも県外出身者である(県知事や長野市長も)。県外人士しかいないのか、と情けなく思うのだが、県外者を有り難く思う気風になってしまい、大抵の若者が主に都市圏に出てしまうこともあって(約8割?)、期待したい地元人士が存在するにも拘らず登用させる県民性ではないようである。もう一人、維新からも立候補している者がいるが、新自由主義の自民党別動隊だから埒外である。惨憺たる大阪府政を顧慮すれば勘案するべきもない(自民党に入党し、支持者を偽って政党を渡り歩いた衆議院議員もいたのである)。信毎記者は、参院選県区で続いてきた事実上の「与野党1対1」の対決構図が崩れたなどと呑気に設問しているが、今後3年間は国政選挙はないのだから、ある意味では戦後の分岐点となると予想される。しかしながら、軍事的にも経済的にも、あらゆる分野において画一化、一様化、狭窄化、空洞化、全体主義化、アウトソーシング化の時代の趨勢は基本的に変わることはないだろう。都市と国家の愚劣化は止まることを知らず、地方に波及しているからである(自民党の牙城になっている地方選挙区さえあるのは惨めの極みとしか思われない)。
 遅い米作は漸く代掻きにこぎつける。田植えが終われば半作である。休日農業は一昨年同様である。これからの盛夏には、額に汗をかいて踏ん張らねばならぬ。しばらく気が休まることがないが、身体を労いつつ励むことになる。

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2022年5月23日 (月)

『イワンの馬鹿』より

05177190  今では、ニュース報道以外テレビから離脱して(テレビ好きだっだのだが・・・)、夕餉を済ますとゆるりと過ごすことが多くなっている。相も変わらず、無為なバラエティー番組が専横して、芸no人や軍事評論家、KO大を始めとする首都圏のニセ学者などが跋扈しているのである。一瞥すると、当の本人たち自身が「ちむどんどん」しているようには思えない。国家機能が集中する都市の腐敗は目が当てられないのである。国会議員の殆どは、後先を見ずに、ゼレンスキーのオンライン演説に狂喜して、参戦を表明している有様である。また、G7首脳会議の報道を眺めると、思わず噴飯してしまったのである。世界の権力者どもの、追随する姿を見て、むしろ憐憫さえ覚えてしまったからである。普通の喧嘩や仲裁でも、こんな事態は考えられない。まるでヤクザの争闘さながらである。欧米各国はキリスト教国を標榜しているのだが、そのキリスト信仰に疑義を抱いてしまうのである。このことは、世界的なキリスト教離れという趨勢も関係が深い。世俗化である。その典型的な例があの帝国主義国家である。政教一致の大国である。そのことは、重々承知しておかなければならないのである。そこでつい想起したのが、トルストイの『イワンの馬鹿』である。
 文学的名声を獲得したトルストイは、その集大成として回心後に執筆したのが『イワンの馬鹿』である。彼のキリスト教博愛主義(トルストイ思想)が展開する民話である。三人の兄弟は小悪魔によって兄弟の仲違いを狙うが、イワンの馬鹿によって退治されてしまうのである。そこで、「頭を使って儲けること」を唱道する大悪魔が登場してイワンを試すのだが、これまた成敗されてしまう話である。長兄の王国は軍事独裁国家として、次兄の王国は金融資本国家として破産するが、他方、大悪魔の策略にも拘らず、イワンの王国は大悪魔を一蹴してしまうのである。汗を流して働かない者は他人の食べ物の残りものしか食べられない、という国の掟による結末である。ウクライナ戦争を念頭に置けば、『イワンの馬鹿』の理解が格段に進むであろうし、現況に符合している。現在、某国の大統領が新太平洋圏構想(IPEF)を引っ提げて訪日しているが、共々、愚者どもの狂宴としか思えない。と言うのは、両者とも、ゆくゆくは衰退・没落する国家だからである。
  

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2022年5月10日 (火)

善悪二元論を超えて

31052042  次は『夜と霧』である。霜山訳の旧版以来の二読目である。新版の方は、より親しみやすい砕けた現代文となっていて、解説と資料写真が省かれているため、凄絶な経験と省察が希薄になっているような気がする。本を読む場合、読者側の主体的読み込みと現在(現代)との比較(客体化)が必要と思っている。さもなければ、単なる啓発本に墜してしまうのである。ウクライナ戦争においては、ほとんどの「国民」が善悪二元論に陥没しており、自分の手が人を殺戮して血で染まっていることにも無自覚なのである。日本人の中に戦争派が過半となって、(新)左翼でさえ、ロシアを糾弾しているばかりで、ウクライナ国旗を掲げてよしとしているという事態がまかり通っているのである(戦争翼賛)。実際には、ロシアの弱体化を狙った米(+英NATO諸国+日本の自・公政府)とロシアの戦争という真実を忘れたかのようである。両者が相手をファシスト・ナチと罵り合って世界戦争へと猛進しているのである。誠にもって、「戦争は人々を分かつ」のである。
 さて、肝心な『夜と霧』であるが、これは「一心理学者、強制収容所を体験する」(Ein Psychologe erlept das Konzentrationslager)という表題である。したがって、旧版のように、センセーショナルな歴史的告発本と扱われることは著者の本意ではないと、遠藤周作石原吉郎も気付いていたようである。比べて新版の方は、著者の意図に沿った心理学(精神医学)的な新訳である。内容は世界的ベストセラーになっていることから詳述しないが、要するに、人間とは何か、人生の意味を問うているのである。だからこそ啓発本と受け止められるのである。しかしながら、主体的に告発本として読み込むことも可能である。だからこそ『アウシュヴィッツは終わらない』のである。フランクルは、とある箇所で「この世にはふたつの種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と」(p145)と解き明かしている。まともな戦争体験者は、生き残った負い目(罪悪感)を抱懐しながら、貝のように口を閉ざしているのである。それは恥辱の化石とも換言できるだろう。現今の戦争派のように、廉恥心のない怠慢な人々(多数派)は何度も過ちを繰り返すと思われるのである。
 もう一つ明らかにしておかなければならないのは、フランクルの宗教観である。これを感得できなければ、『夜と霧』の真の読者と言えないのではないか。そのことは次回以降に明らかにしたい。
 ちなみに、身近な図書館では、『告発戦後の特高官僚』、『現代史における戦争責任』、『血にコクリコの花咲けば』、『敗戦前日記』、『八月十五日日記』、『近代日本と朝鮮』、『手記ー私の戦争体験』など戦争関連本が大量に廃棄されているのが現実である。戦後77年は日本の侵略戦争を忘却する歴史と言わねばならないだろう。あるいは、歴史は別の形で繰り返すとも言えるだろう。このこともまた、人間の重要な一側面であることを剔出しておかなければならないのである。

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