2017年11月30日 (木)

『葦折れぬ』を読んで

Dnh06t8uqaavzng 戦後間もないころに創業した大月書店の第一冊目の書物ということである。これがベストセラーとなり、出版事業としての礎となったということである。『葦折れぬ』は、多くの青少年少女に好感され、早乙女勝元や郷土史家の田中欣一等も愛読書となったようである。この書を知ったのは、「信毎」(長野県人は信濃毎日新聞のことをそう呼んでいる)で、千野敏子の軌跡を紹介する記事に触れたからなのであるが、一度読んでみるかと図書館から拝借したのである。夭折した信州の一女学生の手記である。旧字体・ひらがなの文章を読むことは久し振りであり、太宰治全集の読破で慣れ親しんだこともあって、仙花紙様のこの原本を新鮮な思いで読み進めたのである。この「真実ノート」の大部分は女学生時代の記録で、時代は太平洋戦争の渦中に相当する。戦時下に人々はどんな思いをしたのか、という関心もあったのである。冒頭から「私は戦争をあさましく思ふ世の反逆者である」(p8)と書き記して、「私は未だ曾て祖国愛と言ふものを感じた事はない」(p44)とも自己規定しているのであるが、戦後直後の読者には驚異に受け止められたのであり、敗戦に伴う驚天動地にあっては、ノートの中とは言え、戦時下にこのように表明されていたことが支持されたのである。戦争中の青少年少女にあっては、大概戦意高揚に流されていたのであり、それは高学歴な人間ほど狂信的だったのである。しかしながら、千野敏子が完璧な反戦主義者かと言えば、そうとも思えない言説が随所に見られる。真実を追求するあまり、観念的で自己狭窄的になってしまっているのである。だから、「戦争に対して不平を感じることはなく」(p12)、日米開戦の報に「人一倍血湧き肉躍り」(p82)、生徒を伴って出征兵に感激したり、「涙の出さうな衝動」を覚えていたのである(p151~152)。文学的・哲学的な感傷は、戦前の青少年少女に遍満していたのであるが、それはひとえに貧困と飢餓の生活が滲透していたからと推察される。そのような限界性と制約性が見られるとは言え、その時代に自己欺瞞を唾棄し続けた彼女の信念に瑕疵があるとは思えない。千野はノートに「暗黒時代に生きてゐる自分が哀れな気がする」と表白しているが(p193)、その書の跋において藤森成吉が述べたように(p253)、彼女は典型的な時代の犠牲者と思われてならない。小学校教師として、彼女もまた貧窮の配給生活の中で、終には教壇に倒れて栄養失調で亡くなったのである。享年二十二歳。
 これを読むと、嘘と欺瞞、無知と無恥の野郎がこの国の最高権力者となっている事は、全くの皮肉と言わなければならない。

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2017年11月25日 (土)

農学と農業

33666567 今年はコメの自家消費が早く、既に「新米」(風さやか)を食しているのだが、その味と言えば、少し旨みが乗っていないような気がする。香りもいま一つ。やはり収穫期への途上に降雨と曇天が影響していて、登熟には不足したのだろう。だが、米粒が粒々感がはっきりしていて、やや大きめと見受けられる。ほくほく感にやや欠けるという印象である(冷めてもおいしく感じられるのでおにぎりに適していると思われる)。登熟時や稲架掛け時に秋霖にやられたこともあるだろう。コメの食味にはコメの炊き方も影響する。固目もしくは柔らか目など人により好みが異なるのであるが、炊飯器の機能は向上している一方、コメの研ぎ方に失敗している現場に屡々直面している(半世紀前はお釜でゴシゴシ研いでいたものだが、今では、精米技術の発達によって、コメは研いではいけないのである。もう一つ目にするのは、洗い過ぎて栄養分が殆ど流失しているコメ洗いである)。これではコメの消費が半分に減衰するのは必定と思われる。コメの食味は出来半分、炊き方半分である。
 タイトルが仰々しいのだが、後半部は飛ばし読みだったが通読してみた。農業は、風俗、歴史、生活、環境など、人間が生きている全領域を包含しているのだが、農業の学問(=農学)は、旧来農学部・農学校や農業高校で教えられ、一般に低評価されていたのだが、今や農学は再評価されつつある。生源寺眞一の農学論は、「はじめに」と第一章、第二章に、農学の「学」としてその概要が分かり易く展開されている。即ち、農学とは食料を中心に衣食住の問題に深く関わる科学と定義されている(p4)。取り分けて、現代の農学は、持続可能な発展(sustainable development)を目指して、環境を整えるものづくりとして捉えられているという。そして、農業経済学とは、「経済学の理論が役に立たない問題が存在することを、当の経済学を応用する過程で学び取ることができる学問」(p38)と考えている。これには、結局よくある開発論ではないか、農業にはそれに捉われない分野もあるのではないか、という異論・批判もあるのであるが、ここでは現代農学の動向を認識した次第である。

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2017年11月 9日 (木)

自立支援の矛盾

33324733_2 介護保険法の目的は、「自立した日常生活を営むことができるよう…」(第一条)とあるために、その法改正の度に「自立支援」が強請されている。これは国の介護給付抑制が狙いであることは間違いないが、来年度(2018年)の制度「改革」では、益々高じて自立支援事業に成功報酬制度が導入されることになっている。社会保障費が膨らんでいるのは、人口が多い「団塊の世代」が高齢化しつつあることもあり、致し方ない面もあり、しかしながら、財源問題は税の累進課税化で一発で解決するのである。この間のパナマ文書に続くパラダイス文書の発覚に見られるように、世界中の資産家と権力者は、どんな手口を行使してでも租税回避しているのであって、極右政党の自民党・政府が税対策をせずに庶民を騙して収奪しているのは、そのためなのである(モリカケ問題における嘘つき財務官僚の国税庁長官への栄転)。グローバリズムとは、強欲資本主義の同義語に過ぎないのである。
 介護民俗学とは物珍しい新たな手法と思われるが、民俗学の一つの手法=聞き書きを介護の分野に応用したものである。そして、現在の介護に対する問題提起となるものである。介護業界の問題とは何か。それは、介護する側と介護される側という分岐(関係性)である。元々、利用者は超高齢者であり、職員は大概若く、20代職員ではざらに存在する。半世紀以上の年齢の差があることが多く、知識や人生の蓄積の度合いでは懸隔しているのである。高齢者は、現実的には死に向かって人生を下っていく孤独と無念を覚えているのであるが(p108、279など)、その老いとその先にある死を、これから人生の花開く若きスタッフがどれだけ感じ取れることだろうか。その壁を論じることは介護業界では意識化されずに、仕事としては皆無となっている。介護技術のみに専心することとなり、それが逆に、その問題を遠ざけている現状なのである。スタッフが利用者の人生を全く知らずに介護していることはよくあることである。かつてはその経験知の故に尊敬されていた老人が、今ではものとして扱われている現実に出くわすことが屡々である。また、誤解して「してあげる介護」に満足して自身の生きがいと誇りとして覚えたりする逆転現象すらあるのである。利用者からすれば、疎んじられ厄介者扱いされ、自己決定もなく赤ん坊のように扱われてしまうことすらあるのである。問題行動に焦点化されて対処法に追われる業務の有り様は、介護事業所ではどこにでもある現象である。また、老いに価値を見出せずにバーンアウトに陥る職員すらいる。介護業界の繁忙は、専門家としての社会的要請だけでなく、業務に追われて身体的にも疲弊しており、低賃金がこれに拍車をかけているのである。だから離職率は業界随一となっている。介護労働に忙殺されているのが現状なのであるが、実を言えば、そんな業務など、どうでもいいのである。著者はその問題にいち早くアプローチして、一つの問題提起をしている。「老い」にも価値があることの発見(p282)と、民俗学的聞き書きの手法が、高齢者との関係を取り結び、丸ごと人として尊厳される方途であるという著者の確信(p291)が伝わる著作である。また、高齢者の心身老化に対して、保険費用抑制のために、国によって「自立支援」を強迫し続けることが本当に正しいのかと疑われるのである。

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2017年11月 5日 (日)

卑しき輩が支配する国

Ninjinnmusi 人参を収穫に行くと、キアゲハの幼虫に出会う。冷え込む今頃になっての幼虫じゃ、行く末が気になるところである。とりあえず人参を収穫する為に移動してもらうしかない。隣の畑のオジサンは、玉葱の苗を植え込むために、昼を過ぎても一心不乱に作業を続けている。少々話し込んだ後、自分の畑に戻って人参4本、白菜1玉、大根1本を持ち帰る。昼食を済ましてから地域のえびす講に赴いて、地域の仕事を担い終わると三役で反省会をする。地域振興と地方疲弊の話になるが、結構、皆さん問題意識が高く、知らない情報交換や一人一人の意見を伺うことができた。地方のヒトとカネが総ざらい都会に持っていかれることを認識しての散会となった。県民税や県下の青年の約8割が都会へと流失して、カネとヒトとを都会がせしめている事態なのであるが(長野県の場合)、ほとんど収奪される地方の現実は知られることなく、都会が傲慢に享受しているのである。そして、一例として垣間見るキー局のテレビ番組を視聴すると、タケシやらタモリやらトコロやら、お馴染みのヨシモトやジャニーズの芸no人にウンザリして、意味もない番組が盛り沢山で、怒りを通り越して失笑するばかりである。これをプロデュースする人間がどんな輩かは分かっているのであるが、毎度のことながら、この国は狂っていると思わざるを得ない。「地方創成」とな?もうそんなスローガンはかの人物には忘れ去られて(この点、山口と福井には二度と行くまいと決意している)、次は幼児を出汁にして政権維持しようとしている。コイズミシンジロウという自民党議員を時折ニュースとして瞥見するが、早く消え失せてほしい。もう十分、ソウセンキョやトランプ遊びで日本国は腐敗し果てているのであって、むしろ日本国は、一も二もなく政府を筆頭として破滅するべきなのであり、破滅させるべきなのである。
31633781 子どもをすべて推奨する訳ではないが、この国は悪い「子ども」によって支配されている。モリカケ問題の中心人物とその周辺の輩、およびそれを支持する者どもは、私益を追求してばかりの悪い「子ども」である。「袖口が、鼻水でカピカピだったあの頃。自分の感情を思いきり出して泣き、笑い、怒る子ども達。今の私達は、喜怒哀楽を顔に表すことを、どこに忘れてきたのでしょうか」という思いが本当の思いならば、この国は起死回生となるだろうが、その兆しは露ほどにも見当たらない。しかしながら、いつかは突如として噴出することになるだろう。「自殺したい」という青少年が、お安いSNSの犠牲となる社会は、それほど危うい社会であることは言うまでもない。換言すれば、あの悪徳どもによって、人の命が鴻毛よりも軽くなっている国柄なのである。

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2017年10月22日 (日)

白色矮星としての日本国

32795428 終日の降雨のためにどんよりとした空模様で薄暗い天候である。これは今後の日本国の運命を象徴しているかのようである。午前の豪雨の中を投票し、後は家の中で読書と惰眠を貪っていた次第である。恐らくは極右政党の自民が圧勝するだろう(現選挙制度においては)。首都圏・関西と北陸・西日本の各地からの極右政党議員が続々と選出されるのは間違いない。戦後的繁栄の碌を食んでいる地方柄である。今やそんな時代でもないのだが、よりひどい破滅を望んでいるのであろう。歴史を振り返ると、日本人が漸く飢餓から脱出したのは昭和二十年代後半である。宮本常一は、「日本人が一応飢えから解放されたのは昭和三十年以降であった」と述べている(p28)。その後の経済成長によって、日本人の顔貌と体躯は変化に富んで腐臭を放っている。その中心となっているのが首都・東京である。
 物質文明の恩恵に浴している日本国であるが、「経済」成長神話にまみれているのであるが、しかしながら、それはあくまでも、空腹を満たしているということであって、食物輸入によって実現できているに過ぎない。戦後、農業の機械化は進捗したのであるが、これもまた労働が軽減化されただけに過ぎないのであって、特段に農業生産力が飛躍的に伸長して増産されたわけでもない。つまり、日本人は決して『飢餓からの脱出』に成功した訳でもない。一部では食糧安保論が論じられ、四割を切っている食料自給率の向上を目指している訳だが、これには自民党農政は本腰にはなっていない。なぜならば、日本は原料と食糧の輸入との引き換えに、工業製品の海外輸出で外貨を稼いだという成長戦略神話に未だに憑かれているからである。しかしながら、これは過酷な資源的収奪とエネルギー消費を拡大し、地球的規模の環境汚染と破壊を同伴させているのである。循環型の持続的経済が一部で模索されているのであるが、それへの過渡期であることも知悉しなければならない。国難くんと極右勢力によって、刻一刻と自滅へと向かっている日本国である。原発をより推進したり、脅威でもない北朝鮮を挑発・威嚇する方が、国民にとって余程の脅威なのである。

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2017年10月16日 (月)

バッタを倒すのは誰か?

2017100915270000 嫁さんに自家野菜の味を尋ねると、野菜の味が濃いことに納得してくれた。してやったりという思いである。スーパーなどで購入する野菜は、F1種の播種により均一で、農薬で虫食いもなく、化学肥料の多投により肥大化するであるが、概して生産者からすれば安値である。味は薄くて野菜独特の匂いもなく、はっきり言えば、石油で作られている。そういう野菜を食べてばかりいると、アレルギー体質になることは必定(このことは科学的には確定していない)であるのだが、ブヨブヨのさしが入った霜降りの人気に翳りが聞かれるように、野菜本来の味に回帰してほしいものである。自家野菜は、無農薬のために虫などに齧られ、ほぼ無化学肥料のために成長は緩慢であり、販売するには不適というデメリットがあるのだが、自家野菜としては過分である。この醍醐味は自作でしか味わえないものである。耕作放棄地が激増する時代にあって、家庭菜園やベランダ菜園ではなく、国民全体が自作農になる道(自作自食)という選択肢もあるのである。そうなれば、金があっても喰えない時代も夢ではないのである。兵糧攻め戦略である。

33602048 するすると読める本に出合った。バッタ博士の奮闘記である。儲かる仕事ではない。オーバードクターという言葉にあるように、日本では多くの才能が道端に廃棄されている。政治的意図もあり、大した権威でもないが、今後ノーベル賞など期待できないだろう。だって、こんな政治だもの。権力は無批判な無能者に掌握され、戦後の民主主義は幻影となり下がり、いざとなれば強行採決され続けてきたのである。戦後一貫として支配を続けてきた政党は、最高法規としての憲法を死守するつもりは全くなく、むしろ改悪を党是としている。対米従属の施策とグローバリズムに憑依されている始末である。そして原発再稼働・原発と武器輸出に邁進していて、極右政党そのものになっているのである。元々がそうなのだから。だから、そんな政党政治は何れ破局となるのは必然である。高々3割の、イカれた政党支持者によって人々が道連れとされるのは真っ平なのだが、無党派層が投票行為として動かなければ、石油によって生産された無味な野菜を齧り続けるより他はないだろう。もう一つは、日本という国家からの逃亡である。憲法改悪が目前に切迫している。今次の総選挙は歴史の結節点となる選挙なのである。

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2017年10月 2日 (月)

「農業は儲からない」のか?

2017100210190001_2 稲刈りを敢行した。朝からの曇り空であるが、所用でひと時、健康・歯科相談を終えると、直ぐに田んぼに出向き、家族の協力で稲架かけまで完了したのである。稲刈りに続き、稲架に掛ける作業、落穂拾いなどの細かい作業を終えると、心地よい疲労が全身を満たした。昼前から雨がそぼ降り出し、一人、昼食も抜いて稲架掛け作業を黙々とこなしていたのである。終了時には、雨が本格的に降り出したのであるが、次は畑に出向いて、大根一本、人参四本、キャベツ一玉、ネギ二本をおろぬき、序でに白菜の間引きを実行して、家へのお土産とした。すっかり帽子は濡れて、衣類も湿りがちで自宅に急行した次第である。遅い昼食は午後三時を既に回っていた。畑の周囲のりんご畑は、すっかり秋映やシナノスイーツが赤づいている。「収穫の秋」と言っていい頃合いである。

2017092812080000 「農業は儲からない」という言辞は、一般的には農業以外の分野の人びとから聞かれるのであるが、時には、就農した人や農家出身の人から耳にすると少なからぬ怒りを禁じえない。農業のことなど何も知らない元自民農林部会長であったコイズミシンジロウは、農協の協同を破壊して日本農業を崩壊させる提案をしたのだが、実にアメリカの意思を体現してきたのである。こうなると、野坂昭如が提案したように(これこれ参照)、農民は農産物出荷拒否という手段でストライキをしなければならない。少なくとも自給農業を目指すという手段で都市の人びとを開明させなければならない。世界的に見れば、農業従事者の中には反グローバリズムの声が日増しに高まっているのである。民進党の前原代表も、コイズミに負けず劣らず地頭が悪く、「(GDP)1.5%を守るために98.5%を犠牲にして良いのか?」とTPP妥結にのめり込む発言が記憶に新しい。農業のことなどまるで分っていない「口だけ番長」である。こんなだから、「絶望の党」に身投げする民進党解体の戦犯と成り果てているのである。同じ京都大学出身の長野一区選出の民進党議員は、よしみで、こんな輩に代表選で投票して、今頃になって困惑している始末である。自業自得である。農業のことについては、タイトルを手掛かりとして、いつの日か、本格的に持論を展開してみよう。

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2017年9月27日 (水)

アベとコイケという国難

2017092510010000 右往左往の猿芝居が始まっている。この選挙特需に喜ぶマスコミ業界の宣伝が喧しい。このアベ猿は、政権維持のためなら、どのような嘘と出鱈目を弄するのだが、そのすべてがそれらで塗り固められているために、デッドロックにぶち当たるのは自明なことである。延命の為ならどんな策をも弄するようになる。窮地にあるのはアベ猿とコイケ狸なのである。冒頭解散ということで、コイケ狸が加わって権力闘争の「田舎」芝居(都市の狂乱=葬場)である。どちらに転んでも「国難」と「絶望」は進展するのだが、これに付き合わされる国民は堪らない。期待されるのは地方の反逆・反乱なのである。元々、国民の半分は無投票であり、残りの半分が政権支持勢力の為に、3割弱がこの国の権力を制しているに過ぎないのだが、無党派層にその裾野を広げようと狙って翼賛化(=民進党解体)に余念がないのである。だから少子高齢化対策に反対してきた自〇党がそれを公約に掲げ、コイケ狸が「希望の党」などという羊頭狗肉の看板を掲げて国民を騙すしか方策がないのである。奴らはその理念と信念を決して披歴せず、一環して国民を愚弄し、欺罔に余念がないのである。試しに、アベ猿とコイケ狸の資金源とバックグラウンド(背後勢力)を想像してもらいたい。奴らの言辞はまったく信用できるものではない。「国難突破選挙」と銘打つのであるが、「アベ一強という自公政権」である筈なのに、「国難」など、どこにあるのか。むしろ、「国難」と「絶望」に導いてきたのがこの政権なのである。とにかく、すべてが出鱈目なのである。

 「人生五十年、夢幻の如くなり」(織田信長)と言われた(明治・大正)時代があったのだが、現今は寿命が延びて「八十年」ということだろうか。だが、それにも及ばない身近の知人が、次々と黄泉路に旅立っている。ご本人の無念と死への覚悟を類推すると胸が痛むのだが、次は自分の番ということだろうか。終活の準備のためにも、『図解案内 日本の民俗』などを書見している。記憶にとどめ、記録に残すことを急がねばならないと思念している。しなければならないことが多いのだが、堅実にこなしてゆくことに専念したいものである。とりあえずの稲刈りである。

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2017年9月 8日 (金)

危機は足もとにある

2017090508130000 黙っていても農産物は育つ。収穫ひと月前の田んぼの風景である。今年は曇天と雨天が多く、実りに期待は持てない。稲は集団で育つので多少の不稔には目を瞑ることができるのだが、野菜はそうは行かない。今年は野菜の育成に力を注いだので、それでも何とか人参、大根、枝豆、川中島サシミウリ、メロン、キャベツ、絹さやなど結実してくれた。自家消費には余りにも多く、活用には嫁さんもお手上げの苦言である。産直出荷も視野に入れる時期(とき)なのかも知れない。現在は半農半勤なので時間の余裕もなく疲弊気味であるが、家庭の経済力維持ゆえに、退職が待ち遠しい。第二次朝鮮戦争の危機が凄まじいことになっている。帝国主義各国は斬首作戦を公言している。何としても北朝鮮を崩壊させたいようである。北朝鮮はロケット戦略からミサイル・核戦略に進展し、その先軍主義は人民の犠牲の上に成り立っている。まるで戦前の日本を彷彿させる事態である。太平洋戦争中に、日本は仁科を始めとする原爆製造開発を企図していたことは余り知られていないが、もし製造に成功していたら、日本は間違いなく世界最初の原爆投下国になったであろう。これが逆に被爆国になったのだから敗戦の主因になったのであり、戦後、米国の核戦略の一環として日本の核武装を許さなかったのである。そして、今の北朝鮮である。力と力の対決としての朝鮮危機である。両者ともパワーポリティックスを理念としているのである。日本政府は、表面的には非核三原則を標榜している一方、中曽根や安倍や小池など一貫して核武装を志向しており、日本の核保有を公言しているのである。実際、日本は国連の核軍縮条約の会議開催に反対し、条約交渉に不参加を決め込み、世界を失望させたのである。軍事力(軍事費)の増強は世界経済の重荷になっており、国際関係論の学者を含めて、異常な21世紀になっているのが現実である。このような帝国主義列強の北朝鮮制裁と軍事挑発は何らの説得力がない。むしろ彼らは北朝鮮の暴発を狙っているように思われる。もっとも少ない犠牲者を目指して金一族の首領スターリン主義国家を転覆させるのが最終的な狙いであろう。そうなると、国境を接する中国とロシアは黙ってはいまい。なんだか、アジア・太平洋戦争に敗北した大日本帝国の様相に酷似してきたように匹夫には思われるのである。そして、この間の列国の最弱の環(標的)が、Jアラートまで使って軍事挑発と経済制裁を繰り返すアベ首領による日本であることは言を待たない。民衆の闘いが最も求められる時期である。危機は足もとにあるのである。
(注)「北朝鮮」の正式名称は、朝鮮民主主義人民共和国であることをお断りしておきます。朝鮮分断は、日本の朝鮮侵略が原因であることを忘れてはいけません。

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2017年8月19日 (土)

幻想の明治

33064440 梅雨明けの曇天・雨天が続き、各地では葉いもち病が心配の種になっているという。特に、東北地方の太平洋側が懸念されている様である。当地でも例外ではない。特に、穂首いもち病は白穂になって、その痛手は甚大である。午前の作業前でも、スズメの群れが見られ、愈々不安な気持ちにさせられる。また、本年は梅干し作業ができず、梅漬けに甘んじるという次第である。ニュースでは、野菜の高値に悲鳴を上げる都会の消費者の声を拾っているが、生産者の視点では報じていない。関東圏の観光地とグルメを只管垂れ流しているテレビやマスコミは、狂っているとしか思えない。時代に追放されつつある老躯の身になれば、今更どうということはないのであるが、この本に期待した我もまた大バカ者である。著者は市井の歴史評論家と言われているのであるが、『逝きし世の面影』で和辻哲郎賞を受賞して俄かに著名になっている。たまさか手に取って読んでみたが、この本のどこが名もなき人びとの肖像を捉えているのか訳が分からない。山田風太郎論は興味がないので吹っ飛ばして読み続けたが、維新政府と民権運動との争闘を描いているばかりで、内村鑑三論も政宗白鳥の評論を下敷きにしているだけである。今では文壇や論壇など皆無に近いのだが、保守系雑誌のみが書店の店頭に並んでいる。赤字発行である筈なのに毎月刊行されているのが不思議なくらいである。こんな鄙びた地方新聞にも広告を打っている。表題も仰々しい。『逝きし世の面影』において、彼は「人類史の一つとしての日本人、人類を代表している日本人」(p202)を表現したという。司馬遼太郎は、明治のナショナリズムを称賛したのだが、渡辺は江戸末期から明治初期の日本人に焦点を当てたのである。彼は、司馬を「講釈師」(p91)と断じ、自らは外国人の文献を渉猟して、あんなにも豊かな文化を持っていた日本文化が喪失したのは、1900年頃の世界的な国民国家が確立した故であるとしている。しかしながら、幕末から明治の社会は幻想である。グローバリズムやインターナショナリズムが横溢する現代は、むしろ逆に、中央集権国家を促進し、地方の疲弊と民衆の貧困常態化を招来している。それは明治政府もそうしたのであって、どうして民衆の闘いの歴史を無視するのだろうか。例外を除いて、多くのインテリ知識人は左翼クズレとなり、己の恥ずべき過去を押し隠し、民衆蔑視の想いに駆られて右翼潮流に帯同していくのである。色川大吉が指摘したように、彼もまた講釈師だったのである(p157)。陥穽は至る所に存在しているのである。

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