2018年4月 6日 (金)

入学式今昔

2018040510470000 毎年、桜の開花があると観に行く一本桜(これ)である。桜の時期になると、この貧弱なブログのアクセス数が上昇する(これ)のだが、庭に植栽した引越し記念の桜も、天を見上げるほどの大きさに展開し、春の陽光を浴びて満開である。
 母校の入学式のために小中学校を訪問したのであるが、無難な儀式であったという感想である。小学校の入学式で気が付いたのは、対面式の入学式であったことである。無論、新一年生が背丈が小さいということもあるだろうし、演壇の式典に慣れていないこともあるだろうが、半世紀以上前には、演壇式が普通であったように記憶している(体育館ではなく講堂と称していた)。無用に起立させないで、椅子に座っての平壇式典になっていて、微笑ましいものになっていた。着用している衣類も頭髪も現代風で可愛らしい。かつての講堂はだだっ広く、冬は寒々したものだったが、今では少子化ということもあってコンパクトな体育館を利用している。父兄の服装は、往年は和装が殆どであったが、今では圧倒的に洋装仕様である。これが中学校になると、少し変容する。男子に丸刈りが散見され、女子はポニーテールやショート、ロング・ストレートと多彩である。意外に女子の方が背丈が高いこともあって、男女の凸凹コンビもいて可笑しい。お祝いの言葉や新入生の言葉は、式典に相応しい穏当のものであって滑舌がよい。昔日の吃音や赤面やあがり症を見聞することは少しもない。そういう意味では洗練(一色化)されてきているのかも知れない。往時の親は、生計のための仕事に追われ(そう言えば小学校の父母同伴が多くなっている)、父親が参列することなど滅多になかったような気がする。小中とも、父親がビデオカメラやデジカメ役に徹しているのである。中学では、男子は懐かしい詰襟の学生服が占め、女子はセーラー服はなくなってスーツ・スカート姿に変遷している。往年には国歌斉唱がなかった筈であるが(長野県歌の「信濃の国」斉唱が一般的だった)、それが式次第に挿入されている。1989年の学習指導要領では、学校現場では国旗掲揚と国歌斉唱を義務付けているようである。しかしながら、国民国家を否定する自分としては、掲揚と斉唱は認められないので、典礼では、国旗を平視したり一礼することもなく、口を噤んで「君が代」も歌わないのは勿論のことである。

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2018年3月27日 (火)

怪しい、怪しい、怪しい

Yjimage 本日の休日は、冬用タイヤからの交換や自転車修理、少し伸び始めた草取りや植え替え、情報処理の教科書的勉強など課題をこなして、佐川前財務省理財局長(前国税庁長官)の証人喚問を途中休憩しながらテレビで眺める一日だった。庭には梅の花が綻び出し、密集した黄色に染まった山茱萸が風景を彩っている。イヌノフグリが足下を賑やかに飾り出している。蕗の薹はやや薹立ちし始めている。快晴の光が背中を温めている。風はゆるりと暖かい。春到来なのにである。
 喚問は予想通りの展開である。この人には信念がないらしく、自己保身の権化であることが理解できた。無論、生殺与奪の権が握られていることは疑い得ないのだが、身を切る決意も無いようである。キョロキョロ動く目線が典型的な小官僚であることを証明している。正義感の微塵も感じられない。悲しい人である。財務省の面接試験では、志望者に「なんとつまらない人生だな」と虐められるそうであるが、入省してこれでは財務省のレベルが知れている。ほとんどが東大卒であるが、秀才の成れの果て(白色矮星)である。核心点はすべて「刑事訴追の恐れ」で乗り切った(つもりな)のである。日本国憲法第15条は、(内閣人事局ではなく、)国民の公務員選定罷免権と(国民)全体の奉仕者という公務員の本質を明記している。(国民と)天をも恥じないとなってしまったのだから、悔悛して自白するまで森友問題を追究するのが日本国民の絶対的課題となったのである。国民はなめられているのである。そして、誰が指示し、何のために改竄と偽証はなされたかを徹底追及することによってしか、民主主義は貫徹されないのである。空洞化した日本国憲法が、極右政党である自民党によって改悪を迫られているのは偶然ではないのである。ちなみに、長野高校出身の北村弁護士は、日本国民が誰しも思っている疑義を差し置いて、佐川氏の証言拒否を正しいと反論しているが、長野県民として恥ずかしい限りである。それともう一つ、年齢が近い北村弁護士や佐川氏、及び時の首相の頭髪がふさふさと豊かであるのも、悩みで薄毛になっている自分にとって絶対許せないことである(笑)。

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2018年3月23日 (金)

曲学阿世の国史学

33565344_2 講座派と労農派との日本資本主義論争は、1930年代前半に生起したのだが、この論争は30年代後半には国家権力の弾圧によって強制終了させられた。この論争は、究極的には、左翼論客による日本の革命戦略をめぐるものであって、戦後になっても決着を見ていないと言えよう。敗戦後の歴史学においては、昭和史論争、ファシズム論争、そして「革新」派論から総力戦体制論へと展開しているのである。昭和を睨む歴史学者の面々は、戦争を体験したり、証言した世代から記憶と記録の世代となり、もはや歴史資料を渉猟して考察するしかない現実となっている。だからが故に、巷間では虚偽の歴史観や歴史本が幅を利かせ、書店の店頭やネット上に溢れ返っているのであるが、この主要因は歴史学者のだらしのなさの故なのである。彼らは政治家などの日記や天皇実録などの第一史料を漁ってばかりいるのであるが、それらへの批判もなく政治史中心の歴史を把握して通史を論述しようとするものだから、結局、気の抜けたサイダーのような歴史記述となってしまうのである。
 さて、総力戦体制論は、敗戦の前後の連続性を強調するものである。学生時代には、単位取得のために参考図書として、山之内靖の『マルクス・エンゲルスの世界史像』という出世作を精読したことがあるが、当時の東大では疑似マルクス主義者による学問が席巻していたのである。そして海外の学問の成果を吸収して、それが恰も自分が編み出したものとして取り繕う曲学阿世の学者ばかりだったのである。そんな連中が唱道し始めたのが総力戦体制論なのである。ならば、日本の歴史、特に日本の近現代史を読み解く場合、一体何が必要なのかを次回に詳述してみたい(続く)。

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2018年3月12日 (月)

「わたしは東京を侮蔑する」

2018031215570000 面倒臭い一日であった。精神的な疲労が身に襲い掛かっている。人を何とも思わない行政末端で確認作業をし、午後は確定申告のために会場に急ぐと、e-taxの定着を目指して、税務署は指導が中心で要領を得ない。行政は税務に疎い市民を置いてきぼりしているようだ。NHKの天気予報は、最低気温と最高気温を表示して概況を説明するばかりで、自然のあるがままをニュース化せずに、本来的な人間生活を無視している都会人の有り様には呆れるばかりである。千葉県の情景を見せても、薄っぺらな映像で誤魔化すばかりで、この地方では何の意味もないのである。関東圏には、何十年も前に薄暗い青春を過ごしたこともあるのだが、今となっては何の意味もないニュース映像である。花鳥風月は都会の日本人には全く忘れ去られたようである。『鶴瓶の家族に乾杯』という番組は、その地方の自然と人々の生活が垣間見られるので楽しみにしているのだが、興味本位のディレクターの指向が邪魔をして、見飽きた同一地方が繰り返されて興ざめである。地方はもっと千変万化で豊かなのであるが、都市の人間には分からないのだろう。中には、地方に在住しながら地方の因習を強調している大バカ者がいるが、全くもって失笑してしまう。政治腐敗の原因は地方なのか。原発による(核)電力を享受していたのが都市住民なのである。しかも原発被害の風化を許しているのも都会人なのである。自民党一強支配を許して金城湯池になっているのも都市の選挙区なのである。維新も公明も都市選挙区で出張っているのである。確かにごく一部の地方では、長年の自民党支配を受けているのだが、それは今もって都市在住の世襲議員が跋扈しているからである。長野県では、高校卒業した若者の約8割は都市へと流出してしまうのである。地方のロードサイドを占拠してストロー現象をきたして、地方のあらゆるものを収奪しているのである。29歳の高群逸枝は、『東京は熱病にかかってゐる』という詩集で、「私は都市生活、ことに不正に満ち、阿諛と屈辱とに満ちた売文生活に耐えきれない」と表白している(p200)。「いやな醜い東京、わたしは東京を侮蔑する」(p216)と。それは若き日々の四国巡礼の故に覚えた感覚であった。春先の四国や瀬戸内は風光明媚で、さぞかし美しいことだろう。東京では梅が開花したそうである。しかしながら、醜い東京の政治家は、その醜い悪相をテレビで永遠に晒し続けているのである。

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2018年3月 7日 (水)

軍部の台頭と近代天皇制

33559108 この巻では、「憲政の常道」の時代から軍部主導の「挙国一致」内閣の時代までを取り扱っている。次に続くのは近衛新体制の時代であり、結果的に国家的破滅に収束するのである。憲政の常道とは、第二次護憲運動によって成立し、五・一五事件によって崩壊した政党内閣制である。多数議席を獲得した政党が内閣を組織するという政治的慣例である。決して法的拘束力がある訳でない。裏を返せば、明治の「元勲」が鬼籍に入って藩閥・超然内閣への飽きからくる大正デモクラシーによる精華というべき慣例であったのであるが、実態は西園寺公望(唯一生き残った元老)の首班指名に基づいて天皇の大命降下という方法に拠っているのであって、元はと言えば、「大日本帝国憲法には、首相決定のルールが定められていない」(p4)のである。明治憲法は伊藤博文が中心となって井上毅らが起草したと言われているが、これがまた、出鱈目な憲法なのであった。天皇、天皇、天皇・・・と天皇親政を謳い(欽定憲法)、その大権を規定しているからである。だから、著者はエピローグで天皇制と明治憲法に逢着せざるを得なかったのである。言うまでもなく、統帥権は天皇の大権であり、内閣(行政)からは独立していたのであり、軍部は天皇の不可侵性または神聖性を盾に権力介入から伸長へと進展したのであった。これには、腐敗した政党・財閥勢力や明治以来の天皇制に洗脳された臣民意識という少なくとも40年以上にわたる歴史背景があったのである。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)という俳句があるが(この句の戦争とは憲兵の意であるらしい)、戦争は少しづつ浸潤し、段階的に一気に進捗するのである。軍部が国家権力を掌握して侵略戦争に敗北した責任は、当然の如く、近代天皇制にもあるのであって、ここで戦争責任問題にもなるのである。戦後に成立する「日本国憲法」は、大日本帝国憲法に基づいて帝国議会で承認され、枢密院の可決後、天皇の裁可で公布されたのであるが、ここで注目したいのは、戦後憲法でも天皇制は生き続けているということである(法的継続性)。天皇制問題は、決してタブーとするのではなく、戦争反対を貫くためにはこの問題を避けて通れないのである。著者が最後の一文で、「近代天皇制が、政治統合の主体としての実質的な機能を依然として封じ込められる一方で、国民統合の象徴としては無制約に解き放たれていく、そうした時代でもあった」(p241)という指摘は、現代にも生きているのである。

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2018年2月 9日 (金)

大正日本の正体

33537432 大正時代の日本について論じるのは、非常に気後れを感じる。なかなか一概に論じることはできないのである。この巻は、大正期を国際化時代という視点から立論して、概ね成功していると思われるのだが、歴史研究者によくあるように、政治家どもの暗闘史観によってその時代をイメージするのでは、どうしても不満を覚えてしまうのである。元老や政党政治家による権力闘争の分析に終始して、大正デモクラシーへの言及が過少であり、置き去りにされているのである(著者は殆ど大正デモクラシーという用語を使用していない)。そもそも、明治、大正と元号で(一世一元制度)時代を考究することに疑念がある。明治維新以来の天皇制イデオロギーの支配に屈することになるからである(これは現在でも支配的なイデオロギーである)。また、階級闘争史観からの歴史本は、多々存在しているように錯覚されているが、殆どないのが実状であって、ほぼ天皇制もしくは国民国家の視点として上梓されていると断じてよい。国民国家というイデオロギーもまた、はぎとり難いほど浸透しているのである。
 さて、大正時代は、大まかに概括すると、護憲運動に始まり、普通選挙を引き換えに治安維持法の成立に終わる。対外的には辛亥革命や第一次世界大戦、ロシア革命などの影響を受け、対内的には政党政治と社会運動という大正デモクラシーに彩られている。著者の言うように、立憲主義から民本主義へと「都市の民衆が政治的主体という時代が始まった」(p208)とも規定できるだろう。しかし他方で、自立・孤立と国際協調との対立項で迷走しながら、対華二十一箇条要求に見られるように、満蒙の権益を死守するだけでなく、中国侵略への衝動も底流に流れていたのである。老壮会、猶存社、行地社などの右翼結社が次々と結成され、高畠素之や上杉慎吉(東大教授)等は、国家主義的団体を創始しているのである。三度にわたる対外戦争に勝利した帝国日本は、ナショナリズムの激しい坩堝に入り込むことになった訳である。1925年の治安維持法の制定は、大正デモクラシーを根絶しにして、軍部や右翼団体の台頭を招来するものとなり、大正時代の終着点なのである。そういう意味において、大正時代は、アジア・太平洋戦争の敗戦を準備した時代とも定義できるのである。特筆すべきは、関東大震災に乗じて、国家に反逆した大杉栄や伊藤野枝等が、国家(憲兵隊)によって惨殺されていることである。この甘粕事件亀戸事件に憤激した難波大助は虎ノ門事件を惹起し、ギロチン社や労働運動社のアナーキストたちは大杉の復讐を誓ってテロリズムに走っている。これらもまた大正末期の事柄である。明治維新によって創造された天皇主義国家は、依然として日本を覆い尽くしているのである。大正時代は、一方ではデモクラシーの時代でもあり、他方では「抑圧・圧制の時代」でもあったのである(これ参照)。
 

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2018年2月 6日 (火)

忸怩たる思い

2018012512040000 「今年はさみー(寒い)なあ」というのが当地の挨拶言葉になっている。そんなこんなで、五年ぶりの諏訪湖御神渡りが見られたということである。天候は「前半不安定、後半順調」、経済は「明るい兆し」という宮司の見立てであるが、本日の東京株式市場はほぼ全面安で大幅下落を報じている。アメリカ経済の不安に市場が嫌気をさしているらしい。よく分からないが、気候もどうなることやら。日本海側は大雪で、北陸は豪雪らしい。長野県境の山沿いは本降りなのだが、内陸盆地の川中島平では、多少は影響を受けて降り積もる程度であって、むしろ厳寒が半端でない。40年以上前は極寒期には-10℃以下になったのだが、近年は高々マイナス10℃ということらしい。昼間は乾燥して晴れ上がることもあるのだが、夕方になると、一時間につき一度ずつ寒暖計が下がってきて、水道管の破裂を心配し出す。寒冷は足下からズンズン到来する感じで、老体の身に応えるのである。だから、ズボン下(ももひき、関西弁でぱっち)は必需品である。氷点下三度以上では、「今日はぬくとい(暖かい)ねえ」という感想がここかしこで聞かれ、氷点下三度以下になって初めて、漸く寒さを実感するのである。高校を卒業して上京すると、晴れ間が毎日のように続くのが不思議に思ったことである。ダウンジャケットを着衣しようものなら、背中に汗が滴り落ちて気持ち悪いことこの上ない。精々、空っ風が多少冷たく感じた程度であり、薄いジャンパーで冬をやり過ごしたものである。周囲には、みすぼらしい貧乏学生に見えたことだろう(実際極貧だったのである)。これが大阪になると、小雪がちらほら舞う程度で寒さを感じない。いかなご漁の解禁を聞くと本格的な春到来であるが、本年は不漁のために高値らしい。しかしながら、今、日本で一番寒い地方はどこかと言えば、沖縄の名護市だろう。結果を嵩に、政府はどしどし名護市民だけでなく、沖縄の人びとを居丈高に翻弄し続けるだろう。経済(金)で選挙に負けたのだが、沖縄の軍事基地化は愈々進展してゆくのである。これもまた、本土のヤマトンチューによるウチナンチューへの差別の有り様なのである。明治維新の約150年以来、ヤマトの差別に対するウチナーによる受忍に、忸怩たる思いである。沖縄の怒りがいかほどのものか、呵責を覚えるのである。アキサビヨー、沖縄の独立解放の鐘が鳴っているのかも知れない(これこれも参照)。

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2018年1月31日 (水)

反戦主義者なる事

33634511 この本の書評はどこで見たか。『信毎』かネットか、よく覚えていない。益々耄碌した自分の頭をめぐらしたり、メモ帳を遡って点検しても分からない。それは兎も角、内村鑑三の弟子である結核医・末永敏事(1887-1945)の生涯を追究した労作である。彼の前半生は、「末永は角筈時代よりの弟子であって、医学者として米国に十年留学し信仰を守って今日に至ったものである」と晩年の内村は日記に書き付けている。将来を嘱望されていたのだが、内村の司会で門下のキリスト者と婚姻後、約六年余りして離婚する。時は1933年であり、この離婚の理由は不明であるが、日本帝国主義は満州事変から満州国をでっち上げ、愈々本格的に侵略戦争にのめり込んでゆく時期である。直後には、官憲による小林多喜二虐殺事件が発生し、獄中転向が続いたのである。まさしく、時代の転換年度である。さらに、1937年の日華事変により中国への全面的な侵略戦争が開始され、この時に至って、翌年の末永は、国家総動員法を拒否して、当局の職業調査に、「平素所信の自身の立場を明白に致すべきを感じ茲に拙者が反戦主義者なる事及軍務を拒絶する旨通告申上げます」と申告したのである。師事した内村鑑三は、不敬事件で教職追放となり、日露戦争前から非戦論を展開していたのである(兵役拒否でないことが内村の限界である)が、弟子の末永は軍務拒否を通告したために、即座に特高に逮捕される。「捨て身の反戦行動」である。これ以降、彼の後半生は暗転したのである。『内村鑑三全集』を編集した鈴木範久は、「一部の例外を除いて、無教会主義者たちの反戦は挫折していった。しかもその多くは満州事変を機に妥協に転じた。・・・これに対して末永敏事は行動し、そのまま死に至った。徹底して生きるには信仰が必要。彼には確かな信仰があったのだろう」と語っている(p73、183)。翌年、宗教団体法が制定され、多くのキリスト教徒は恭順を示して、1941年、宗派を集めて日本基督教団を発足させる。翌新年には、伊勢神宮に参拝して教団設立を報告したのである。ドイツ教会闘争史に詳しい雨宮栄一は、日本のキリスト教徒は「だらしなかった」と恥の歴史を慨嘆している(p88)。戦後になって教団は、戦争責任についての告白を議長声明として出しているが、遅きに失するばかりでなく、それを具体的に行動指針として提示していないものとなっており、その後も社会派牧師や学生を排斥したのである。反戦主義者の告白によって、敏事の結末(後半生)は破滅だったが(p149)、累が及ばないように配慮しながら、一人「みじめに」殉教したと言えるのではないか。今や侵略戦争の加害責任が意識化され、問われている時代になっているのだが、同時に、侵略戦争に反対して行動した人々の名誉復権も執拗になされて、それが日本人の歴史認識に据えられなければならないのである。

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2018年1月23日 (火)

今、緊要なこと

33587240 図書館で検索し、見つけた新書である。金欠症のために滅多に書店では購入しない。ただ、必要とあらば財布の底をはたくが、何分(なにぶん)書棚がないので目一杯の本の処分に苦慮し、挙句の果てに廃棄しまうことになるためである。従前、高村の書物は愛読者ではないが、いつかは大部な小説を読み切ってみたいと思い合わせていたところである。いつものように、安直にも、時評集からと考えたのである。それは、2014年から2016年までの時代時評に講演録を二つ加えた覚書である。どちらかというと、講演録の方(就中、「信州岩波講座」、p156~)が高村の思慮を理解する上で手っ取り早いのではないか。作家的な観察力が利いていると思われるからである。
 即ち、東北大震災、その前兆である阪神大震災など、言葉を失う体験から一人一人が未来へと言葉を紡ぎ、言葉にすることで未来への意思を持つことである。やはり物書きに多い、言葉の力のへの確信である。キーワードは、人権意識と歴史認識の徹底であり、平和への希求であり、日本文化遺産の再生である。七十有余年に渡る戦後の歴史を改悪するために、ネトウヨ首相はもぬけの殻になってしまった日本国憲法の産廃処理を政治日程に仕掛けているのだが、これは確信犯がなす業である。30年来の右傾化に乗じて、嘘と出鱈目な言葉が氾濫し、低劣な言葉が飛び交っている。戦後的な繁栄は空虚となり、諸処の極右政党がこの政権への「消極的な承認」(p73)を利用して国会議員の三分の二勢力を獲得してしまっているのである。しかしながら、極右首相が国民の生命と財産を保証する訳ではない(高村薫は「仮想」と呼んでいる。p45)。このことは既に福島の原発事故で実証されているのである。繁栄する日本経済というものも幻想になってしまっている。産業もない、科学技術もない、まともな政治家もいない、子供も少ないという荒涼とした現実を目前にして、極右政権が跋扈する余裕などない地点にいるのである。憲法改悪と原発推進の反動政権には、破滅しか待っていないのである。戦前の歴史をしっかり認識すること、これが今、緊要なのである。
 しかしながら、結尾の「当面私たちに残されている道は、すぐ後ろに迫ってきている大波に呑み込まれないよう、黙って逃げることだけである」(p214)という言葉は、この時評集を棄損してしまっているのではないか。今日は、白根山の爆発と地震が懸念されたのである。天変地異はそんな日本人を待っていないかのようである。

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2018年1月20日 (土)

帝国化への道

33524450 タイトルの一部からして「帝国日本」である。現時の世界的グローバル経済の進展に伴って、帝国主義(Imperialism)概念では捉えられない事象が顕在化して、帝国論(Empire)が大流行である。いわゆる超帝国主義論である。特に、ネグリ&ハートの『〈帝国〉』(2000年)がその論を急加速したのである。日本の学者が欧米の学者に飛びつくのは近代化に成功した明治以来の事柄である。その昔、親炙した助教授から、東大の教授が丸善の洋書を独占買いして、訳書や著書を上梓している実態を聞き及んだことがあるが、それは今も変わらない。帝国論も例外ではない。そして、レーニンが提起した、左翼の垢にまみれた「帝国主義」という用語を使用することは、ためらう時代になっているのである(これ参照)。(ポスト)構造主義も帝国論も、パリ五月革命の挫折から派生したものと思われるが、世界の仕組みの解明を標榜しながら内面化を促進し、革命対象を巨大化して革命そのものを彼岸化しているとも思われるのである。
 さて、第三巻では、帝国化の起点とした日清戦争から日露戦争を経て明治時代の終期を叙述している。台湾征服戦争から始まって藩閥と政党とが連携し、自由民権運動は取り込まれてゆくのである。軍事大国化の推進に伴う苦境の財政を補完する地方の名望家の役割と地域社会の変容を記述するのが、この巻の特色である。黒岩六郎の『二十一世紀へ生きる』では、地方名望家の分岐が詳述されているが、帝国主義の特徴である金融資本の確立期でもあって、地方に蓄積された資本が国家によって収奪・統制される過程でもある。その有り様が記述されている。この巻の中で目を引いたのは、1903年の七博士意見書以前に、1900年9月、東京帝国大学の六教授が満州からのロシアの追放を山県首相に意見したことである(p65、逆に、七博士建白事件について言及されていないのが不思議である)。東京大学とその国史学科は、戦争責任を未だ回避しているのである(京都学派も例外ではない。これ参照)。もう一つ気になったのは、「日清戦争につづいて日露戦争も解散総選挙の下で始まったのである」(p108)という記述だった。戦争は、どんな形であれ、内なる統治として既に始まっているのである。

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