2017年6月18日 (日)

愚民信仰(同穴)の契り

2017061519050000 田植えは終了したが、捕植がまだである。とにかく、田畑の農作業に忙しい。今年は降水量が異常に少ないのだが、その影響は甚大である。農産物の減収必至である。天気予報はまるで当てにならない。ならないどころか、天気概況や最高・最低気温を、したり顔で解説しているのだが(それがどうしたというのだ)、予報士としての仕事を果していない。何のための資格なのか疑っている。そんなことは表示すれば分かることで、一々解説は要らない。また、一地方の東京の天気予報も要らない。だから、基本的に全国の天気図だけで必要十分なのであるが、人間だけが生きているのではない、ということも敢えて強弁したい。洗濯だとか、花粉だとか、そんな情報なんて要らない。草花やら、昆虫やらの風土情報をもっと知りたい。まったく、中央の人間が考えることは知れてる。アホらしい。今の自分の意識が奈辺になるのかすら分かろうとしないその感性は、アベのそれに相似している(無知と無恥である)。モリ・カケそば問題もあるが、国際医療福祉大のこともあるし、そもそも国家戦略特区なんて要らない(「国際」と名称したり、それを謳う学校など胡散臭い)。マスコミも特区についての詳細な報道と検証をしていない。ところが、長野県政も特区指定を申し込むということである。あの無能な知事を始め、県政首脳部の考えることである。何が「母国で技能を生かしてもらう」だ。要するに、安価な労働力を補充するためだろ、というのが本音である。その企画にJAが噛んでいるとも言われている。そんなことより、先ずすることがあるやろ、と思うのだが、如何せん、農業に無知な諸氏と農政の「プロ」の合作企画であるからやむを得ないことである。国家戦略特区など、経済の活性化のためではなく、一部の権力者による国家資本(国有財産と税金)の強奪に過ぎない。それはモリ・カケそば問題で明々白々になったのであるが、この淵源は小泉政権にあったのである。来る内閣改造では、必ずや小泉の息子が起用されるであろう。国民の怒りが充溢している現在、益々アベ自民党を打倒しなければならない時期が到来しているのである(既知な都議選など、ほとんど意味がない)。女性暴力事件をもみ消したアベ政権は、同時に国民をバカにしている「強姦」内閣であるのだが、これに同調する一部左翼・リベラル層の愚民信仰にも留意しなければならないことである。インテリ左翼もまた、常に愚民信仰に辿り着くのである。

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2017年6月 3日 (土)

雑感な一日

2017060312490000_3 昼過ぎに畑で農作業をしていると、轟音が空を切り裂いていた。長閑な信濃の空域も戦闘機や戦略ヘリの通り道になっているようで、機体を確認しようとしばらく空を仰いでいたのだが、一向に視認できなかった。かつては長閑だった信州の空も、国家間の軍事戦略の犠牲になっているようである。ろくなものじゃねえ。

 隣の田は代掻きを終えて、田植えを待つばかりになっていた。カエルの鳴き声が水面にこだましている。反対側の田は精農家のものだが、田植えは終了したばかりで、苗が心細げに揺らめいている。「我田引水」にはもうしばらく時を要するだろう。森友・加計問題でのこの国の宰相の「我田引水」は度を越していて、それが私利私欲のための国家戦略特区なのである。にもかかわらず、検察はピクリとも動かないのが不思議である。国権の最高機関は、国民主権という憲法上の理由から国会であると習った筈が、政府主導が当たり前になっている始末である。国民主権の忘却、基本的人権の侵害、三権分立でないことから、日本国憲法も実質的に歪曲されているのである。

 今朝の新聞一面によれば、昨年、日本の出生数が100万人を下回ったそうである。生活が苦しいんだよ。経済や生活面での政策で、何一つできてねえじゃねえか。加計じゃなかった、余計なことばかりばかりしているんじゃないよ、アベさんよ。こんなんやったら、首相なんていらないよ。教育行政でも何でも、アベ友の金儲けの為にするんじゃないよ。国家戦略特区なんて要らねえんだよ。「嘘つきはアベの始まり」ってみんな言っているぜ。恥ずかしくないの?やっぱり、「日本死ね」である。

 テレビはお笑い芸人とジャニーズで席巻されている。見たいドラマもない。ミステリーなんて見たくないよ。脳科学者である茂木健一郎が、「日本のお笑いは終わっている」と発言したそうで、これに対して、「大物」お笑い芸人が、得意である筈のお笑いで返さずに、反論になっていない。なぜなら、彼らのお笑いは全く面白くないからである。こうやってお笑い芸人は時代と為政者にかしずき、戦争に貢献してゆくのであるこれも参照)。

 

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2017年5月24日 (水)

非国民上等!

33408659_2 「暗黒の時代」が到来したようである。社会主義の「冬の時代」を髣髴させる事態である。時代は核とミサイルの軍事優先となり、「共謀罪」法案のように、人々は国民主権を放棄したかのようである。人々はその権利を放擲し、天皇が日本国憲法を健気に遵守するという転倒している有様である。世界の為政者は、その権力を行使して狂奔している。日本国も例外ではない。支持率三割弱の、最も無恥で無知の政治屋が放縦に居直って居座り続けている。背任と汚職にまみれていながら、国民的関心と追及もなく、居丈だけに振る舞っている。そして重要なことは、都市の住民が中心となってこれに追随していることである。これなくして彼らの傲慢は決して成立しないのである。かの為政者どもは都市住民が率先して選択しているのである。決して(一部の)地方ではないのである。都市部の政治屋が三権と社会的地位を占有しているのである。これが腐臭を放っていることをなぜ認めないのか。例証はいくらでもある。テレビニュースや番組を賑わしているのは、ほぼ殆ど都市出身の住民なのであり、都市の大学は都会人ばかりになって社会的地位を獲得するために奔走しているのである。都市の毒害は地方にまで波及して、この地方の知事(東京都出身で元横浜副市長)は中央政治に従順で、地方の遺産を浪費しているだけであるが、何と県民の5割が支持しているという異常事態である。『村に火をつけ、白痴になれ』ではなく、『街(都市)に火をつけ、白痴になれ』なのである。つくづく思うに、かの70年闘争の課題は何も解決されず、その遺産は活用されていない。運動を担った人々は年波と諦念の中で、歴史の藻屑に沈下しようとしているのである。大逆事件以降の社会主義運動でもそうだったのである。歴史は決して嘘は吐かない。伊藤野枝は大正期のアナーキストである。しかしながら、ものの見事に社会から制裁を受け、最期は大杉栄と共に、関東大震災の最中に、簀巻きにされて井戸の中に放擲され惨殺されたそうである。寺院に嫌われてお墓はただの自然石のみなのである。常識的に考えれば悲惨の極みであるが、野枝の訴えの方が一等優れている。貧乏上等、わがまま上等。すべての常識を覆せ。「貧乏に徹し、わがままに生きろ。それが伊藤家(野枝)家訓である」(p7、52)。自分の生死は自分で決めろ(p44)。「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」(p114)。「この腐った社会に、怒りの火の玉を投げつけろ!」(p133)。どうせ希望がないならば、なんでも好き勝手にやってやる。絞首台にのぼらされても、かまうものか。非国民上等。「国家の害毒は、もうバラまかれている。そう、友だちは非国民」(p162)なのである。この心意気こそ、今の時代の人びとが学ぶべきことなのである。ちっとも「暗黒時代」でも「冬の時代」でもないのである(これこれこれ参照)。

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2017年5月13日 (土)

戦中派の尻尾

32449629 山田風太郎の作品は一度として紐解いたことはない。しかし、彼が戦中派として戦争体験をしていたこともあって(但し、彼は実戦体験していない)、また、このブログ記事を読んで図書館から山田のエッセイを借り受けて熟読してみた。戦中派の人々の考えと想いは、自分の幼少期にも、身内や親類縁者から仄聞したのであるが、決して彼らは自らの体験をあからさまに開示することはなかった。小中学生の頃、週初めの月曜、一時限の朝礼で、校長や教頭、教師たちの戦争体験話をしばしば平和の大事さを強調する中で聴く時も、戦争の具体的な実相は言外に推察するだけで、想像するより外はなかったのである。教頭は空腹で降参した時に米軍から与えられたパンの旨かったことから平和の訴えがあり、担任はトンネル内に身を投げて自殺しようとしたと吐露していた言葉が脳裏に焼き付いている。
 それでは、山田風太郎の場合はどうだったのだろうか。皇国青年であった彼には実戦的な体験はない。一般的に、戦中派の記録や日記類は信用しがたい。これは山田自身が述べていることであるのだが、それらのほとんどは、自己正当化に終始しているのである(市井の者は、それが余りにもの悲惨な出来事であるがために黙して語らずである)。そして、山田は戦争責任のベストテンとして、昭和天皇、近衛、松岡、木戸、東條・・・と列記しているのであるが、後には、日本人、重臣連、天皇、近衛、木戸・・・と改訂している。「太平洋戦争風眼帖」を縦横に深読みすれば、山田は典型的な戦中派というのが理解できる。「明治栄光論」であり、「植民地解放論」であり(司馬遼太郎も同様)、「捲土重来(他日報復)論」であったのである。そのような戦前の思考(という尻尾)をいつまでも保持している意味において、完全に戦前の自分を切開していないと言わなければならない。その結果、日本人が大好きな、日本人論を展開するという隘路に陥ってしまうのである。そして、戦争責任の筆頭は日本人総体であると改めて指弾してゆくのである。曰く、もし日本人が原爆を米国より先に発明したら、日本人は躊躇なくこれを使用しその残酷も感じないだろう、と(p9 原発再稼働を見ればよく分かる)。また、「日本人の特性は、といわれた場合、その最大にして最も簡明なのは『軽薄』であり」(p15)、「日本人はうそつき民族であるのみならず、うそというものに鈍感である」(p39)と痛罵しているのである。これら以外に、無責任、寄らば大樹の陰、二股侍、幼児性、一発屋、無鉄砲、従順、小利口などと指摘して、日本人の国民性を一重性と二流民族という二つの規定に収斂しているのである。この彼の定義は、押しなべて得心のゆくものではあろうが(かの首相もそれらを完全に体現している)、それは同時に鏡に映った(尻尾を残す)戦中派自身の姿ではないだろうか。だから、冒頭で太平洋戦争おける「名将」を持ち上げたり、戦後になって付和雷同的に「民主主義」を高唱する輩の偽善性や愚かな政府・軍部首脳への非難にのみ関心が集中してしまっているという彼の限界が見て取れるのである(体験者としての怒りも十分理解できるが、歴史学的にかつ民衆の闘いの観点から断罪すべきなのである。また、戦争体験者でなければ戦争の実相が分からない、という言説は真っ赤な嘘である)。要するに、決然としていないのである。

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2017年5月 6日 (土)

逝かれた人々

33382836 やっぱりな、と思うだけである。今年の4月23日、拉致問題の国民集会において、それが「内閣の最重要、最優先の課題」であり、「解決する」と決意表明しているのだが、これは全くの嘘である。もしそうなら、今頃は解決していることだろうし、況や、その発言が飛び出したのは、北朝鮮の核・ミサイルが「切迫」(政府広報)している時期の発言がために、「この人はやはり逝かれている」と思い至った次第である。また、その解決のために米国の協力と連携が必要であるとして、自ら積極的に先導しようという気概もないのは明々白々である。それだけではない。拉致被害者の家族がこの妄言に唯々諾々と付き合わされて、キリスト教と神道などの右派勢力である「救う会」に牛耳られているために拉致問題が一向に国民的な悲願とならないのだな、と彼らに同情の念を禁じ得ない。田原氏には「変なものを付けてるだけ」と揶揄される始末である。要するに、完全に政治的に利用されているのである。北朝鮮問題などと煽っているアベなのであるが、他方で、連休中に自ら率先して(閣僚の半分以上も右に倣い)外遊に興じ、ゴルフや飲食に耽って弛緩しているのであって、こんな内閣なら自分でもできるなあ、と呆れてしまう次第である。お粗末な政府である。国会議員や政党も然りである。さぞかし、アベ首相は稀有で、最も優秀な天才的大宰相であろう。それでもって戦犯である祖父の顰に倣って、憲法改悪を表明しているのである。呆れてものも言えないとは、このことを言うのである。夫婦揃って「神ってる」のだろう。やっぱり、逝かれたニッポン、である(自分が日本人であろうが、米国人であろうが、中国人であろうが、そんなことはどうでもいいことである)。
 この本の著者もまた悲惨である。元々、この書の狙いが「人類が歩んだ旅路をなぞり、どのような経緯でここまで到達したのかを明らかにすること」(p11)であるのだが、科学力と創意工夫で食料生産力を向上させてきた歴史を振り返り、人類の過半以上が都市に集中した(2007年)21世紀の食糧問題は、問題なく解決していくだろうという安穏とした内容である。農業史としても俯瞰的に詳述されているので初心者にとっても分かりやすく修習できる。ラチェット(歯車)-ハチェット(手斧)-ピボット(方向転換)というキーワードを駆使しながら、人類は前進-破綻の危機-方向転換してゆくという進歩史観である。人類は「偉大な成果」(p243)を収め、「勝利を積み重ねて」(p246)、「大躍進の時期を迎えた」(p246)と賛辞を送っている。本当にそうなのだろうか。確かに著者は、一方で、「矛盾に満ちた豊かさ」(p257)と懸念も感じているのだが、他方で、この温暖化や生物多様性や持続可能性などの問題が山積しているにも拘らず、やがて方向転換して解決を見るだろうという見解に墜することは、火を見るよりも明らかだろう。分かりやすさが故に陳腐な見解に帰着するのは、英米の学者には特徴的なことである。
 (追記-2017,5,10)
 もう一つ。ブラジルの伐採された熱帯雨林の惨状に涙ぐんだ著者は、末尾において、こんなことを結論的に叙述している。「いまわたしたちは農耕をする種から都市生活をする種に変わろうとしている。少数が食料をつくり、大多数の人びとがそれを食べるという最新の取り組みは始まったばかりだ」と。「都市の暮らしも自然界とのかかわり合いなしに成り立たない」(p262)と言いつつも、帝国主義的な搾取や大地からの過剰な強奪、都市と地方の格差や南北間対立などに無関心を決め込み、その変容を無条件的に肯定する著者の近代人的な思考に、疑念と苛立ちを覚えるだけである。

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2017年4月24日 (月)

文科省の家庭教育支援?

Img1 家庭の教育力が低下している、と言う。誰が言い出しているかといえば、文部科学省である。正確に言えば、文科省の「生涯学習政策局男女共同参画学習課家庭教育支援室」である。冗長な名称部署であるが、行政とはそういうものである。国家が共謀罪の導入を目指している、現在進行中の国会審議の次は、家庭教育支援法が企図されているらしい。国家主義者による権力の私物化が漸進している中で、第二次朝鮮戦争の軍事挑発がなされ、いよいよ戦争国家化が成就されようとしている事態なのである。既に、道徳(戦前の修身)の教科化が決定し、来年度から教科書が使用される。国家による洗脳教育が一段と進行するのである。これと並行しての家庭教育支援法である。いじめ・非行を叫び、子どもの貧困が注目され、母子家庭世帯の増加や青少年の引き籠りを捉えて、少子高齢化に危機感を抱く政府は、家庭の中にも手を突っ込む目論見なのである。その時、当事者の自己責任と親の責任が常に問われ、己と己を中心とする社会通念を強制するのである。利潤追求するために金融資本は常に家庭の解体を主導するのであるが、政府はそれを国会で法制化して施行する。原因を作ったものがこれを「是正」するということのメチャクチャからして、テロ等準備罪以上の悪法になることは間違いない。動機が不純であることから民衆が総動員されるのである。確かに地域社会は分断され、子育てが孤立し(孤育て)、人々が貧困化し、家庭環境は変化している。ひとり親世帯の貧困率は半数を超越している。反政府側の人々の中で、どれだけの人が家庭と家庭環境の実態を認識し、関心を抱いているのだろうか、と自問しなければならない。もしかすれば、もう後戻りができない時期なのではないか、と考え及ばなければならない時なのである。極右翼政権であり、政府官僚や司直は保身と追随に走り、マスコミは政府広報化している有り様は、同時に、主権のある人民のチャンスであることも知らなければならないのである。

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2017年4月 9日 (日)

都市のまやかし

2017040912060003 梅の花が満開となり、朝からの菜種雨が止んで桜の開花となっている。都会では満開、もしくは散り始めとのことであるが、当地では漸く春到来である。猫の額のような畑を整理して、とう立ちした白菜 の菜花を、天ぷら蕎麦に投入して試食する。これは農園を営む者だけの味わいである。柔らかくて、ほろ苦さを感じない、ほんのりとした甘みが口腔内に広がり、春の味わいである。

 植木屋の 幟や増えて 春来る

 この本の中で、野坂昭如は長野市に、都合、六回訪ねたことを記している(p119~130)。1975年のことだから、高度経済成長期を経てオイルショックの端境期で、農家は兼業化が進み、三ちゃん農業から母ちゃん農業へと進展し、農村が激変した時期である(この農村医療記を読むと、当時の農村・農民生活が垣間見れる)。当時はまだ農業人口は750万人ぐらいであったが、今では200万人を切っていることだろう。60年前のそれの10分の1であり、激減といってよい。駅前通りはシャッター街となり、農村は耕作放棄地が増え、都市は労働力(人)と食料とカネを地方から飲み込んで成立しているのである。そして、都市生活者の保守化である。これが持続可能な社会ではないことは言わずもがなである。その稿の中で、野坂は二つの提案をしている。農民による食糧出庫拒否と、農業を婦人に委ねよというものである。これは実現性が薄いのであるが、彼は農業指導者研修会の講師として発言した後、エノキ栽培やリンゴの集荷発送センターを見学して、農業生産の大変さや都市生活者の無理解を感得している。また、地元の婦人三人と懇談している。そして、この農業危機に及んでは、「もう女に渡しちゃった方がいいような気がしてくる」(p127)と吐露している。婦人には飢えは無縁だからである。「都会に住んでいる者は、何かとてつもないトリックまやかしにかけられている」のであって、「そのまやかしは農村に対するよりは、はるかにひどいような気がする」(p130)と文末を締め括っている。けだし、至言と言わなければならない。

 クラーセンさんの訴えにも傾聴してみてください。
 http://afriqclass.exblog.jp/

 

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2017年4月 8日 (土)

司馬遼太郎の朝鮮観

32288547 著者である中塚明については、彼が近代日朝関係史についての専門家であること以外、詳らかに知らない(これ参照)。しかしながら、司馬の著作が未だに広範に読み継がれていることから、これを念入りに批判することは、厳として意義のあることである。のぼせ上った歴史修正主義者や国粋主義者などの右派が大手を振っているからである。司馬の本は全くと言っていい程読んでいないのだが、瞥見したところ、その虚実が入り混じった文体が嫌いである。小説家としての資質は多分あるのだろうが(推測)、そのしれっとした倨傲が気に食わない。彼は『坂の上の雲』の映像化を拒否したということだが、著作権を除けば、作品は発表した時点で著者の権限から離れるのであって、評価は読み手が行うことなのである。したがって、映像化を拒否するのは傲慢以外の何物でもないのである(映像化を望むわけでもないし、映像化するべきだとも思わないが)。母親は自分の子供を拒否するだろうか。歴史意識や想像力が漸次喪失されることに付け込んで歴史を改鋳し、それを美化する風潮は、紛うことなく、人々の記憶と意識を改変し劣化させるものである。中塚によれば、司馬の明治観は「戦前の昭和は大嫌い、明治大好き」(p27)の「明治栄光論」だと言う。敗戦前の昭和は「異胎の時代」として毛嫌いし、日露戦争は祖国防衛戦争として、それまでの明治は武士道が貫かれた良き時代だったというのである。ちょっと、どうかしているのじゃないのか。日露戦争後、日本人は民族的に痴呆化したと司馬は捉えるが、断じてそんなことはあり得ない。むしろ、明治維新から始まって、殺戮の戦史だったのである。そのことを中塚は、司馬の朝鮮観を批判することで、日清戦争の中にも洞察できると仔細に論じている。朝鮮王朝占領、朝鮮抗日闘争へのジェノサイド、王妃殺害事件(これ参照。意図が不純であることと、その結果としての結論が間違っているが、比較的うまく纏められている)である。司馬に劣らず、明治政府は正史と戦史の偽造、鏖殺(おうさつ)を隠蔽・正当化するためにプロパガンダに明け暮れていたのである。

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2017年4月 4日 (火)

闇市派の農業論

33568994 野坂昭如は、2015年の年末に黄泉に旅立っている。この刊本は、焼け跡闇市派として、農業に関して、(特に都市生活者の)日本人に対する、歯に衣を着せぬ警世書である。アベ・日本政府が掲げたTPP法が、トランプ米国大統領の出現によってあえなく潰(つい)えたのだが、今後は日米による二国間貿易協定(FTA)へと推移してゆくことなるだろうが、これは日本の農業の崩壊に直結する問題である。野坂の論旨は、タイトルにあるように極めて明快である。農業に関しては、この本の中で、興味があったのは三点ある。一つは、彼が都市生活者の思い上がりを指弾していることである(p105~118)。都市生活者には「農民を切り捨てる考え方がひそんで」おり、「今の農村、農民のおかれている、いわば八方ふさがりの状態は、都市にすべての原因がある」として、一度飢えてみるしかない(p154)と直言している。現代の市場主義経済、もしくは新自由主義経済とグローバル化の淵源は前川レポートである(これも参照)。そして第二に、この前川レポートを指針とする中曽根内閣は、土光敏夫を財界から引っ張り出して第二臨調会長に据える。その結果が、民営化と規制緩和に邁進する、その「土光が始めた悪魔の原発事業」である。その国策に従って、東芝は非情な経営危機に至っているであるが、この野坂の刊本には、土光との喧嘩対談が掲載されている(p56~80)。1975年の頃だから、土光敏夫は経団連会長(=財界総理)として辣腕を振るい始めた時期である。ところが、この対談を熟読すると、農業に対する土光の無知が暴露されているのである。彼は肥料仲買商の次男として岡山市の近郊に誕生して、都会に出て技術者として出世街道をひた走るが、「中学までは親父を手伝って百姓やっていた」というが、これは少し怪しい。嘘が混在しているのは権力者のやり口である。土光の発言の中で、「農村問題としての面から見ると、いまはもう地域社会というものが破滅してしまっている」(p58)という一点のみ首肯するのであるが、その問題を何ら追及しようとしてはいない。解決策として、効率的な農村ができるように農業基盤の整備をして、その地域に工場などをミックスさせるという、ありきたりの提唱をするだけである。何のことはない、形を変えた日本列島改造論である。「めざしの土光」、「無私の土光」と称される人でも、言い訳と開き直り、自負と自画自賛で対談は終了している。第三に、何と野坂はこの川中島平を訪問して、講演と、農業婦人三人との懇談をしているのである(p119~130)。

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2017年3月24日 (金)

汚い奴等

2017032420040000 今日は、タイの海外研修をした息子を駅まで迎えに行き、二人してその足で、「びんぐし湯さん館」の温泉でのんびり浸かりました。帰りには、懐かしさも加わって、愛媛産ぶんたん(ザボン)を衝動買いしました。息子は旅の疲れなのか、入浴後、早速、カツ丼を食らっていました。「(タイ料理は)辛くて酸っぱくて、やっぱり日本の方(和食)がいいわ」との感想でしたが、それはそれ、それぞれの国情がありまして、摂氏47度というこの乾季のタイ人にとっては、自慢の料理に違いありません。魚醤にも慣れていないのだろうが、息子所有のスマホ写真を見せてもらったが、彩がよくスープ状の汁物もあって、美味しそうな料理が並んでいるじゃないか、と思ったものでしたが、息子は息子で、ちょくちょくコカ・コーラを飲んでおりまして、このアメリカの飲料水を差し置いての、タイ料理についての批評は、全く合点が行きません。事前に私は所用で大阪との往来を致しました。大阪では日中12、3度の温暖でしたが、19号線を戻ると、信州では風の花が舞っていました。信州の春は、一月遅れで5度ほど温度が都会と比べて低いようです。下道を追いまくられての運転でしたが、やはり怖いです。一般道にもかかわらず、時速80km以上のトラックを含めての車が多かったので、気が抜けませんでした。19号は走行の車が少ないせいか、スピード過剰で坂が多いので気が気ではありません。路面には、くどい位に「追突注意」の表示があり、運転しながらの風景観察がままなりません。眺めると、それぞれの地域が平均化しているな、という感想を抱きました。大阪でも、惜しむらくは、ラーメン屋が増えました。大阪はやはり都会で、看板をはじめとした賑やかな喧騒に、逆に懐かしさを感じまして、もうしばらく滞在したかったです。東京のつまらなさと比較して、人間味と独特の文化が充満しています。維新を始め、政治的には五流ですが、これは本来の大阪ではありません。一週間もすれば、浪速には桜の開花宣言があるでしょう。造幣局の通り抜けもあります。10℃が開花のめどですが、気象予報士は数字のマジックを知らなさ過ぎです。数値と天気図を示せば分かったように説明しますが、自然とはそんな甘いものではありません。地学という科学ですらありません。大阪のおっちゃん=籠池さん、できたら日本会議も右翼も国粋主義者も愛国主義もやめませんか。その裏切りと嘘に懲りたのではありませんか。人として、「手の平返し」されての「トカゲの尻尾切り」、もしくは「梯子外し」や「仲間割れ」に同情しております。奴等は都合によって、論理でも利害でも分が悪ければ最後には逃亡します。天皇主義者でもありません。大阪府知事もアベ夫婦も高級官僚(官僚制の逆機能)も、人間として信用できない、汚い奴等です。

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