2017年9月 8日 (金)

危機は足もとにある

2017090508130000 黙っていても農産物は育つ。収穫ひと月前の田んぼの風景である。今年は曇天と雨天が多く、実りに期待は持てない。稲は集団で育つので多少の不稔には目を瞑ることができるのだが、野菜はそうは行かない。今年は野菜の育成に力を注いだので、それでも何とか人参、大根、枝豆、川中島サシミウリ、メロン、キャベツ、絹さやなど結実してくれた。自家消費には余りにも多く、活用には嫁さんもお手上げの苦言である。産直出荷も視野に入れる時期(とき)なのかも知れない。現在は半農半勤なので時間の余裕もなく疲弊気味であるが、家庭の経済力維持ゆえに、退職が待ち遠しい。第二次朝鮮戦争の危機が凄まじいことになっている。帝国主義各国は斬首作戦を公言している。何としても北朝鮮を崩壊させたいようである。北朝鮮はロケット戦略からミサイル・核戦略に進展し、その先軍主義は人民の犠牲の上に成り立っている。まるで戦前の日本を彷彿させる事態である。太平洋戦争中に、日本は仁科を始めとする原爆製造開発を企図していたことは余り知られていないが、もし製造に成功していたら、日本は間違いなく世界最初の原爆投下国になったであろう。これが逆に被爆国になったのだから敗戦の主因になったのであり、戦後、米国の核戦略の一環として日本の核武装を許さなかったのである。そして、今の北朝鮮である。力と力の対決としての朝鮮危機である。両者ともパワーポリティックスを理念としているのである。日本政府は、表面的には非核三原則を標榜している一方、中曽根や安倍や小池など一貫して核武装を志向しており、日本の核保有を公言しているのである。実際、日本は国連の核軍縮条約の会議開催に反対し、条約交渉に不参加を決め込み、世界を失望させたのである。軍事力(軍事費)の増強は世界経済の重荷になっており、国際関係論の学者を含めて、異常な21世紀になっているのが現実である。このような帝国主義列強の北朝鮮制裁と軍事挑発は何らの説得力がない。むしろ彼らは北朝鮮の暴発を狙っているように思われる。もっとも少ない犠牲者を目指して金一族の首領スターリン主義国家を転覆させるのが最終的な狙いであろう。そうなると、国境を接する中国とロシアは黙ってはいまい。なんだか、アジア・太平洋戦争に敗北した大日本帝国の様相に酷似してきたように匹夫には思われるのである。そして、この間の列国の最弱の環(標的)が、Jアラートまで使って軍事挑発と経済制裁を繰り返すアベ首領による日本であることは言を待たない。民衆の闘いが最も求められる時期である。危機は足もとにあるのである。
(注)「北朝鮮」の正式名称は、朝鮮民主主義人民共和国であることをお断りしておきます。朝鮮分断は、日本の朝鮮侵略が原因であることを忘れてはいけません。

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2017年8月19日 (土)

幻想の明治

33064440 梅雨明けの曇天・雨天が続き、各地では葉いもち病が心配の種になっているという。特に、東北地方の太平洋側が懸念されている様である。当地でも例外ではない。特に、穂首いもち病は白穂になって、その痛手は甚大である。午前の作業前でも、スズメの群れが見られ、愈々不安な気持ちにさせられる。また、本年は梅干し作業ができず、梅漬けに甘んじるという次第である。ニュースでは、野菜の高値に悲鳴を上げる都会の消費者の声を拾っているが、生産者の視点では報じていない。関東圏の観光地とグルメを只管垂れ流しているテレビやマスコミは、狂っているとしか思えない。時代に追放されつつある老躯の身になれば、今更どうということはないのであるが、この本に期待した我もまた大バカ者である。著者は市井の歴史評論家と言われているのであるが、『逝きし世の面影』で和辻哲郎賞を受賞して俄かに著名になっている。たまさか手に取って読んでみたが、この本のどこが名もなき人びとの肖像を捉えているのか訳が分からない。山田風太郎論は興味がないので吹っ飛ばして読み続けたが、維新政府と民権運動との争闘を描いているばかりで、内村鑑三論も政宗白鳥の評論を下敷きにしているだけである。今では文壇や論壇など皆無に近いのだが、保守系雑誌のみが書店の店頭に並んでいる。赤字発行である筈なのに毎月刊行されているのが不思議なくらいである。こんな鄙びた地方新聞にも広告を打っている。表題も仰々しい。『逝きし世の面影』において、彼は「人類史の一つとしての日本人、人類を代表している日本人」(p202)を表現したという。司馬遼太郎は、明治のナショナリズムを称賛したのだが、渡辺は江戸末期から明治初期の日本人に焦点を当てたのである。彼は、司馬を「講釈師」(p91)と断じ、自らは外国人の文献を渉猟して、あんなにも豊かな文化を持っていた日本文化が喪失したのは、1900年頃の世界的な国民国家が確立した故であるとしている。しかしながら、幕末から明治の社会は幻想である。グローバリズムやインターナショナリズムが横溢する現代は、むしろ逆に、中央集権国家を促進し、地方の疲弊と民衆の貧困常態化を招来している。それは明治政府もそうしたのであって、どうして民衆の闘いの歴史を無視するのだろうか。例外を除いて、多くのインテリ知識人は左翼クズレとなり、己の恥ずべき過去を押し隠し、民衆蔑視の想いに駆られて右翼潮流に帯同していくのである。色川大吉が指摘したように、彼もまた講釈師だったのである(p157)。陥穽は至る所に存在しているのである。

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2017年8月10日 (木)

介護の真髄

33524744 高口光子さんの仕事には平生注目しているのだが、しばらく遠ざかっている内に見逃していた近著を通読してみた。相変わらずの高口節が炸裂している(講演会でのそれは有名である)。それはさておき、かつては自宅で黄泉に出立するのが当たり前であったが、今では約78%が病院で、約13%が自宅で、介護施設では約9%となって、病院では、点滴や薬剤・栄養剤投入のためのチューブに繋がれて亡くなっているという。家族は少しでも親に生き永らえてほしいという願いと悔いを残さないために病院死を選択している。いわゆる、ターミナルケアの次元の話なのだが、これまた、家族には悩ましい問題なのである。介護施設での死は生活の場としての旅路である。高度な医療技術がなく、治療は行わないのが原則である。「施設で死ぬということは、職員との人間関係をもって、ただひとつの”私”の名前で見送られるということ」(p4)である。施設でのターミナルケアは家族の意思に沿って行われるのであるが、その時に家族にチューブを入れるか、救急車を呼ぶかが問われることになり、そしてここが問題なのである。家族として後悔しない選択を迫られるのである。救急病院に搬送されても死は免れないのであるが、病院での死は生物生命体の死、病名での死に過ぎない。だから、死の瞬間から退院となり、自宅か葬儀屋に搬送される。病院とは、元々治療機関なのである。超高齢化社会にあって、これからは介護施設での死の割合が増えると予想されるが、それに見合った施設の内容が整備されているかどうかと問われれば、途上と言わなければならない。施設には、本人の「大いなる自己断念」(p34)をもって入所するのだが、自立支援という方針のもと、個人の尊厳と生活支援によって「自己実現」できる場が、本当の意味での介護施設なのである。そして、介護の仕事とは、大変な生活支援をしながら、利用者が「ただひとりの人間として自分らしく生きて、死んでいくのを見届ける」(p221)ことなのである。他方、日本政府は介護保険法を改悪し、介護給付を削減して自己負担を増大して、権力と財政の私物化に勤しんでいるのが現状である。人間として恥ずかしい。
 俯いて耳を閉ざして原爆の
 国の宰相私邸を目指す
 高口さんの指摘で感心したのは、「死んでいく人たちの価値はそのお年寄りが出会った人で決まる」(p18)という下りである。「介護の毒は孤独」(p6)との指摘と通底している。人はやはり一人で生きている訳でなく、また一人で死ぬ訳でもないということである。

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2017年7月31日 (月)

昭和っ子の本

33633868 『昭和っ子の朝焼け』の「昭和っ子」とは、昭和(20年代後半~)30年代の子供のことであり、この民俗学的な著述は、その時代に生きた子供達の生態をいきいきと書き取ったものである。筆者がその「あとがき」で記されているように、史誌や研究書など無数にあるのだが、「生活者本人が自らの実体験を広範かつ具体的に記した」ものは殆どない。自分史の作成がひと頃流行ったのであるが、ほぼ自慢話ばかりで民俗学的資料としては無意味なものが多い。そして、「わずか六、七十年前の近過去がどんどん分からなくなっている」(p317)のである。歴史から学ぶというが、現代人はほとんど歴史から学ぶことが不得手なのであり、学ばない。思考することなく、リア充から逃亡し、実体験から学ぶ健全な価値観を形成することなく、ネットでストレスを発散し、個人情報がダダ洩れにも関わらずにネット世界の餌食になっている青少年に対し、若い親たちも影響されて理不尽な大人たちが増えつつある。この辺の分析は少しくなされていないという意味で、いかに無駄な本が上梓されているのか知れない。この著作は、詳しく知られていないその時代を見事に描写されていて書店の店頭で発見してすぐに購入してしまった次第である。その時代に生きた子供たちの感情も明らかにしていて、待望の書だったのである。

 暑い日中は避けて読書に勤しみ、夕方に草刈りをして、ミニ白菜を播種した一日であった。ミニ白菜は、娃々菜といい、例の信州山峡採取場の種で、道の駅信州新町で購入したものである。14粒入りで100円でしたので、試行栽培としては適宜でした。この道の駅は、新鮮野菜・山菜と西山地方の美味しい豆や蕎麦がおススメです。訪問した時は燕の子育て期にあたり、庇では、親が子への餌やりや見張りなど甲斐甲斐しい働きぶりで飛び交っていました。とても田舎らしいのんびりとした道の駅で、余分なものがなく、リラックスできます。蕎麦目当ての人も多いと思います。

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2017年7月27日 (木)

写真集を読み解く その2

8 1960年代の「家の光」は、ここ信州の農村では農協を通じて、どこの家でも家のどこかに置いてある雑誌であった。自分にとっても、活字への関心はこの雑誌に育てられたのは言うまでもない。今でも、書店店頭に並ぶ他の雑誌を押しのいて、最も購読者が多い雑誌である。版型は今より小さく、父母は読んでいたのかどうか(農政を語るうえで、『家の光』を研究する歴史学者が殆どいないのは残念なことである)。母は尋常小学校もまともに通えず、息子の私に漢字を尋ねたり、漢字辞書が手元に必携であった。平仮名に少々の漢字しか知らない母を、私は決して恥じていないどころか、むしろ健気に生きた母を誇りにしている。そのことを思慮すると、今のアベ内閣を到底許すことはできない。二の丸は陥落した。次は本丸へと関係者一族郎党を民衆の手によって掃討しなければならない時である。民進党など関係ない。民衆自身が政党を創出し、育成しなければならない時期なのである。

 『写真アルバム 上田・千曲・東御の昭和』の後半の写真を丹念に読み解く作業は続いたのである。
①1950年代、戦後の混乱から一息つき、人々は余暇の楽しみを興じつつあるが、農民は食糧生産に追い立てられているばかりである。耕運機や脱穀機などが普及し始め、子供たちは坊主頭やおかっぱ頭で父母の農作業を手伝うのが当たり前であった。
②1960年代になると、子供たちは下駄履きからゴム靴へ、学生服とセーラー服へ、肩掛けカバンとなり(1970年代には背嚢カバンへ)、大人たちは和装から洋装が普及した。1960年代後半には、未だ茅葺の屋根の民家が残存していたが、やがてトタンが被せられ、瓦葺が普及した。学校の作りは板張りからコンクリート製の校舎となる。
③戦後、天皇の行幸が頻繁に行われ、1964年の天皇御一行の植樹祭では、新戸倉温泉の白鳥園に二泊されて、人々は国道で日の丸を振って出迎えた。私も、教師の指示で日の丸を持たされ、理不尽にも、通過時に平身低頭させられたことを鮮明に覚えている。

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2017年7月21日 (金)

写真集を読み解く

2017072111410000 兎に角暑い。冷涼な信州である筈であるが、朝から気温がぐんぐん上昇して、日中は家内で過ごすこととなるのだが、正午前に所用の帰途、田んぼに寄ってみた。分蘖途上でいよいよ中干しに入るのだが、これが難しい。隣の精農家の田んぼは中干しに入っている。教科書によると、最高分蘖期で田植え後60日である筈なのだが、様子を見ながら経験を重ねる他はない。畑では、それなりに収穫できているのだが、シソの葉の栽培は失敗して、直売所で購入して、本日、白梅酢の上に投入した。梅漬けではなく、梅干しの作業は続いているのである。後は天日干しである。年金だけでは到底生活できないので経済活動をしなくてはならないのであるが、田畑の見回りをしながら様々に思念していることである。今年は野菜の生産を中心として工夫しながら栽培している。
201706191642214388 いき出版のこの写真集を一つ一つチェックする。解説はどうでもいいのだが、写真が語る昭和の分析である。漸く、高度経済成長のまでに至りついたのだが、この所、身心だけではなく、脳の方も呆けてきて、寄る年波は如何ともし難い。理解できたことをメモ風に書き残しておく。
①大正時代まで脱穀は千歯こきを使い、昭和になって足踏み脱穀機を使用し始めた。大正時代まで、江戸時代そのものの農業であって、手作業の稲作が慣例であった。
②キャベツの栽培は戦前にも行われ、甘藍(玉菜)と呼ばれていた。
③養蚕王国・信州の端緒は江戸時代初期であった。
④戦前は国民服と割烹・モンペであり、戦後になって若者から始まって洋装が広まった。
⑤戦後、歌謡と演劇の青年団活動が盛んであり、生活改善と農業技術改良から、菅平硫黄鉱害反対運動浅間山米軍演習化反対運動へと政治化したが、青年の都会流失によって運動はやがて消失した。
⑥昭和30年代には、養蚕・畜産・果樹などの複合経営であったが、機械化の流れの中で、耕運機や脱穀機などの普及したのであるが、所得格差の拡大によって農業は衰退の一途をたどることとなる。以上。

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2017年7月 2日 (日)

アメリカ帝国主義の勝利

31058051 今回の都議選もまた、すべては茶番であり、予想通りである。であるからと言って、諦念している訳でもない。都政なんて関係ない。もう何年も上京していない。旅行や冠婚葬祭などの機会があるが、すべて断っている。東京が嫌いだからである。多分、2012年に東北大震災ボランティアの後で、秋葉原に立ち寄ったのが最期と思われる。大体、選挙は選挙公示日には大勢が決まっているのが専門家の常識である(余程の風が吹かない限り決定)。選挙運動員を経験したことがあるが、選挙運動では、手応えと票数の値踏みは具体的にしっかりと行われているのであり、知らぬは選挙民なのである。公明の支持者が共産党への支持票になる訳でもなく、選挙運動期間は(票数)確認に過ぎないのである。投票行動をしない無関心層など基本的に当てにならないのであり、支持層固めが狙いなのである。学校教育の中では、政治行動は一切禁止されているのであり、長い義務教育と高等教育によって非政治化され、無関心層を醸成させるのが日本の教育なのである。それは、確定申告時に如実に顕現している。学校教育では、確定申告のことについては全く教えられておらず、労働者もまた確定申告を自らすべきとは教えられていない。選挙の好きな保守層は脱税と節税のために殆どが確定申告を行うのであるが、無関心層は税意識が全くなく、余計な税をむしり取られても平気な面をしている。多くの国民もまた税意識が希薄なのである。ところが、世の支配層は、必ず確定申告をして、必ず自分の言うことを聞く政党に投票するのである。その代表的な例は、竹〇平蔵である。しかしながら、この人物は表を張る玉ではなく、政界の渡り鳥であり、権力者に常に帯同し、権力欲にかぶれたコイケが担うこととなっている。動機が不純なことから、コイケもまた遂には捨てられる運命なのだが、これにシンジロウが加わると強力な悪臭となって日本国民は苦難を強いられる筈である。元々、「維新」など相手にされていないのである。選挙における投票行動とは、選挙陣営にとっては、支持者名簿が収集明記され、支持者にとっても情実とコネというWin-Winの関係となっているのであり、したがって、一度として、民主主義国家であった試しはないのである。野党と東京都民の完敗であり、都議選の唯一つの関心は投票率のみである。半分に行かなかったら実質四分の一の選挙民の支持にすぎないのであり、本来無効である。それにしても投票行動した東京都民は、大阪府民に負けず劣らず、野党や批判勢力を認めない翼賛の選択したのであり、後は無党派層に期待するしかない。大都市は、いよいよ異臭を放ち続けているのである。

 大都市の喧騒から離れ、梅取りと梅漬けの準備、及び田畑の草取りに専心する一日で、休日なのだが余裕のない一日を過ごした次第である。

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2017年6月30日 (金)

悪魔の正体

2017062917310000_2 夕方、田んぼの水入れをしようとすると、思わぬ西山からの激しい驟雨のために、全身ずぶ濡れになってしまった。午前に、嫁さん孝行しようとお出掛けした後、暑さを凌いでの午睡後に馳せ参じたところである。水田が湛水できて喜ばしいことなのだが、パンツまで浸透して、大慌てで帰宅。すべて更衣する程の雨脚だったので、今日はこれにて農作業は中止と相成った次第である。雨雲が空を覆い、水田に雨滴が激しく降り注ぐ天候で、山が霞んで見える。風の具合を見ながら一回限りの除草剤を散布するタイミングが取れない日々である。
 先日、信毎を開いていると(共同通信提供)、全国の土地の2割(38万㎢×0.2=7.6万㎢=760万㏊)が所有者不明というニュースを目にした。九州の面積を上回るという。都市化、少子高齢化の波の中で、耕作放棄地を始め、農地の転用など、土地への執着力が減っているのだろうが、恐らく、荒廃農地は耕地面積440万haの内、30万㏊を既に超えていることだろう(国土に占める農地の割合は約12%であり、欧米のそれは5割前後である。日本の森林面積は約66%であり、いかに日本の国土が森林で覆われていて、農地としては利用制限と限界があることが分かるだろう)。したがって日本の農業は、海外のような大規模農業が絶対不可能なのである。農地集約による小規模化(日本の農家の殆どは零細農家である)が精々のところである。北海道農業ですらアメリカ農業の二分の一程度の規模なのである。日本の農業をどうするのかという岐路・選択が厳しく国民に問われているのである。
 その問題以上に切実なのが、科学技術の劣化の問題である。タカタや東芝などの企業の落城がそのことを象徴している。情報産業化への流れを見誤り、基礎科学の軽視などが考えられ、理工系の学生・研究者が日の目を見ずに置かれて、役立たずの政治屋や企業家や文系出身者やスポーツ・芸no人などの報道ニュースで覆いつくされている。アベ夫婦を始めとした政治の私物化はその最たるものである。神戸「正論」懇話会では、かけそばチェーン店を全国展開すると絶叫している。身内の中でしか説明できない小心者である。その昔、泉南地方を行脚したことがある。同じような建売住宅が居並んでおり、一様に犬を飼っており、一様に青い新聞入れがエントランスに括り付けてあって、その景観に戦慄を覚えたことがある。京阪神・和歌山では少し安価な、その新聞の購読者が多いのである(関西地方のニュースをよく見ると、その映像が屡々目にするだろう)。その新聞とは、産経新聞のことである。アベもまた、この御用新聞を精読していることだろう。他方、東京はと言えば、「都民ラストの会」=第二自民党が喧しい。大都市は増々腐臭を放っているのである。

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2017年6月18日 (日)

愚民信仰(同穴)の契り

2017061519050000 田植えは終了したが、捕植がまだである。とにかく、田畑の農作業に忙しい。今年は降水量が異常に少ないのだが、その影響は甚大である。農産物の減収必至である。天気予報はまるで当てにならない。ならないどころか、天気概況や最高・最低気温を、したり顔で解説しているのだが(それがどうしたというのだ)、予報士としての仕事を果していない。何のための資格なのか疑っている。そんなことは表示すれば分かることで、一々解説は要らない。また、一地方の東京の天気予報も要らない。だから、基本的に全国の天気図だけで必要十分なのであるが、人間だけが生きているのではない、ということも敢えて強弁したい。洗濯だとか、花粉だとか、そんな情報なんて要らない。草花やら、昆虫やらの風土情報をもっと知りたい。まったく、中央の人間が考えることは知れてる。アホらしい。今の自分の意識が奈辺になるのかすら分かろうとしないその感性は、アベのそれに相似している(無知と無恥である)。モリ・カケそば問題もあるが、国際医療福祉大のこともあるし、そもそも国家戦略特区なんて要らない(「国際」と名称したり、それを謳う学校など胡散臭い)。マスコミも特区についての詳細な報道と検証をしていない。ところが、長野県政も特区指定を申し込むということである。あの無能な知事を始め、県政首脳部の考えることである。何が「母国で技能を生かしてもらう」だ。要するに、安価な労働力を補充するためだろ、というのが本音である。その企画にJAが噛んでいるとも言われている。そんなことより、先ずすることがあるやろ、と思うのだが、如何せん、農業に無知な諸氏と農政の「プロ」の合作企画であるからやむを得ないことである。国家戦略特区など、経済の活性化のためではなく、一部の権力者による国家資本(国有財産と税金)の強奪に過ぎない。それはモリ・カケそば問題で明々白々になったのであるが、この淵源は小泉政権にあったのである。来る内閣改造では、必ずや小泉の息子が起用されるであろう。国民の怒りが充溢している現在、益々アベ自民党を打倒しなければならない時期が到来しているのである(既知な都議選など、ほとんど意味がない)。女性暴力事件をもみ消したアベ政権は、同時に国民をバカにしている「強姦」内閣であるのだが、これに同調する一部左翼・リベラル層の愚民信仰にも留意しなければならないことである。インテリ左翼もまた、常に愚民信仰に辿り着くのである。

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2017年6月 3日 (土)

雑感な一日

2017060312490000_3 昼過ぎに畑で農作業をしていると、轟音が空を切り裂いていた。長閑な信濃の空域も戦闘機や戦略ヘリの通り道になっているようで、機体を確認しようとしばらく空を仰いでいたのだが、一向に視認できなかった。かつては長閑だった信州の空も、国家間の軍事戦略の犠牲になっているようである。ろくなものじゃねえ。

 隣の田は代掻きを終えて、田植えを待つばかりになっていた。カエルの鳴き声が水面にこだましている。反対側の田は精農家のものだが、田植えは終了したばかりで、苗が心細げに揺らめいている。「我田引水」にはもうしばらく時を要するだろう。森友・加計問題でのこの国の宰相の「我田引水」は度を越していて、それが私利私欲のための国家戦略特区なのである。にもかかわらず、検察はピクリとも動かないのが不思議である。国権の最高機関は、国民主権という憲法上の理由から国会であると習った筈が、政府主導が当たり前になっている始末である。国民主権の忘却、基本的人権の侵害、三権分立でないことから、日本国憲法も実質的に歪曲されているのである。

 今朝の新聞一面によれば、昨年、日本の出生数が100万人を下回ったそうである。生活が苦しいんだよ。経済や生活面での政策で、何一つできてねえじゃねえか。加計じゃなかった、余計なことばかりばかりしているんじゃないよ、アベさんよ。こんなんやったら、首相なんていらないよ。教育行政でも何でも、アベ友の金儲けの為にするんじゃないよ。国家戦略特区なんて要らねえんだよ。「嘘つきはアベの始まり」ってみんな言っているぜ。恥ずかしくないの?やっぱり、「日本死ね」である。

 テレビはお笑い芸人とジャニーズで席巻されている。見たいドラマもない。ミステリーなんて見たくないよ。脳科学者である茂木健一郎が、「日本のお笑いは終わっている」と発言したそうで、これに対して、「大物」お笑い芸人が、得意である筈のお笑いで返さずに、反論になっていない。なぜなら、彼らのお笑いは全く面白くないからである。こうやってお笑い芸人は時代と為政者にかしずき、戦争に貢献してゆくのであるこれも参照)。

 

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