2018年2月 9日 (金)

大正日本の正体

33537432 大正時代の日本について論じるのは、非常に気後れを感じる。なかなか一概に論じることはできないのである。この巻は、大正期を国際化時代という視点から立論して、概ね成功していると思われるのだが、歴史研究者によくあるように、政治家どもの暗闘史観によってその時代をイメージするのでは、どうしても不満を覚えてしまうのである。元老や政党政治家による権力闘争の分析に終始して、大正デモクラシーへの言及が過少であり、置き去りにされているのである(著者は殆ど大正デモクラシーという用語を使用していない)。そもそも、明治、大正と元号で(一世一元制度)時代を考究することに疑念がある。明治維新以来の天皇制イデオロギーの支配に屈することになるからである(これは現在でも支配的なイデオロギーである)。また、階級闘争史観からの歴史本は、多々存在しているように錯覚されているが、殆どないのが実状であって、ほぼ天皇制もしくは国民国家の視点として上梓されていると断じてよい。国民国家というイデオロギーもまた、はぎとり難いほど浸透しているのである。
 さて、大正時代は、大まかに概括すると、護憲運動に始まり、普通選挙を引き換えに治安維持法の成立に終わる。対外的には辛亥革命や第一次世界大戦、ロシア革命などの影響を受け、対内的には政党政治と社会運動という大正デモクラシーに彩られている。著者の言うように、立憲主義から民本主義へと「都市の民衆が政治的主体という時代が始まった」(p208)とも規定できるだろう。しかし他方で、自立・孤立と国際協調との対立項で迷走しながら、対華二十一箇条要求に見られるように、満蒙の権益を死守するだけでなく、中国侵略への衝動も底流に流れていたのである。老壮会、猶存社、行地社などの右翼結社が次々と結成され、高畠素之や上杉慎吉(東大教授)等は、国家主義的団体を創始しているのである。三度にわたる対外戦争に勝利した帝国日本は、ナショナリズムの激しい坩堝に入り込むことになった訳である。1925年の治安維持法の制定は、大正デモクラシーを根絶しにして、軍部や右翼団体の台頭を招来するものとなり、大正時代の終着点なのである。そういう意味において、大正時代は、アジア・太平洋戦争の敗戦を準備した時代とも定義できるのである。特筆すべきは、関東大震災に乗じて、国家に反逆した大杉栄や伊藤野枝等が、国家(憲兵隊)によって惨殺されていることである。この甘粕事件亀戸事件に憤激した難波大助は虎ノ門事件を惹起し、ギロチン社や労働運動社のアナーキストたちは大杉の復讐を誓ってテロリズムに走っている。これらもまた大正末期の事柄である。明治維新によって創造された天皇主義国家は、依然として日本を覆い尽くしているのである。大正時代は、一方ではデモクラシーの時代でもあり、他方では「抑圧・圧制の時代」でもあったのである(これ参照)。
 

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2018年2月 6日 (火)

忸怩たる思い

2018012512040000 「今年はさみー(寒い)なあ」というのが当地の挨拶言葉になっている。そんなこんなで、五年ぶりの諏訪湖御神渡りが見られたということである。天候は「前半不安定、後半順調」、経済は「明るい兆し」という宮司の見立てであるが、本日の東京株式市場はほぼ全面安で大幅下落を報じている。アメリカ経済の不安に市場が嫌気をさしているらしい。よく分からないが、気候もどうなることやら。日本海側は大雪で、北陸は豪雪らしい。長野県境の山沿いは本降りなのだが、内陸盆地の川中島平では、多少は影響を受けて降り積もる程度であって、むしろ厳寒が半端でない。40年以上前は極寒期には-10℃以下になったのだが、近年は高々マイナス10℃ということらしい。昼間は乾燥して晴れ上がることもあるのだが、夕方になると、一時間につき一度ずつ寒暖計が下がってきて、水道管の破裂を心配し出す。寒冷は足下からズンズン到来する感じで、老体の身に応えるのである。だから、ズボン下(ももひき、関西弁でぱっち)は必需品である。氷点下三度以上では、「今日はぬくとい(暖かい)ねえ」という感想がここかしこで聞かれ、氷点下三度以下になって初めて、漸く寒さを実感するのである。高校を卒業して上京すると、晴れ間が毎日のように続くのが不思議に思ったことである。ダウンジャケットを着衣しようものなら、背中に汗が滴り落ちて気持ち悪いことこの上ない。精々、空っ風が多少冷たく感じた程度であり、薄いジャンパーで冬をやり過ごしたものである。周囲には、みすぼらしい貧乏学生に見えたことだろう(実際極貧だったのである)。これが大阪になると、小雪がちらほら舞う程度で寒さを感じない。いかなご漁の解禁を聞くと本格的な春到来であるが、本年は不漁のために高値らしい。しかしながら、今、日本で一番寒い地方はどこかと言えば、沖縄の名護市だろう。結果を嵩に、政府はどしどし名護市民だけでなく、沖縄の人びとを居丈高に翻弄し続けるだろう。経済(金)で選挙に負けたのだが、沖縄の軍事基地化は愈々進展してゆくのである。これもまた、本土のヤマトンチューによるウチナンチューへの差別の有り様なのである。明治維新の約150年以来、ヤマトの差別に対するウチナーによる受忍に、忸怩たる思いである。沖縄の怒りがいかほどのものか、呵責を覚えるのである。アキサビヨー、沖縄の独立解放の鐘が鳴っているのかも知れない(これこれも参照)。

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2018年1月31日 (水)

反戦主義者なる事

33634511 この本の書評はどこで見たか。『信毎』かネットか、よく覚えていない。益々耄碌した自分の頭をめぐらしたり、メモ帳を遡って点検しても分からない。それは兎も角、内村鑑三の弟子である結核医・末永敏事(1887-1945)の生涯を追究した労作である。彼の前半生は、「末永は角筈時代よりの弟子であって、医学者として米国に十年留学し信仰を守って今日に至ったものである」と晩年の内村は日記に書き付けている。将来を嘱望されていたのだが、内村の司会で門下のキリスト者と婚姻後、約六年余りして離婚する。時は1933年であり、この離婚の理由は不明であるが、日本帝国主義は満州事変から満州国をでっち上げ、愈々本格的に侵略戦争にのめり込んでゆく時期である。直後には、官憲による小林多喜二虐殺事件が発生し、獄中転向が続いたのである。まさしく、時代の転換年度である。さらに、1937年の日華事変により中国への全面的な侵略戦争が開始され、この時に至って、翌年の末永は、国家総動員法を拒否して、当局の職業調査に、「平素所信の自身の立場を明白に致すべきを感じ茲に拙者が反戦主義者なる事及軍務を拒絶する旨通告申上げます」と申告したのである。師事した内村鑑三は、不敬事件で教職追放となり、日露戦争前から非戦論を展開していたのである(兵役拒否でないことが内村の限界である)が、弟子の末永は軍務拒否を通告したために、即座に特高に逮捕される。「捨て身の反戦行動」である。これ以降、彼の後半生は暗転したのである。『内村鑑三全集』を編集した鈴木範久は、「一部の例外を除いて、無教会主義者たちの反戦は挫折していった。しかもその多くは満州事変を機に妥協に転じた。・・・これに対して末永敏事は行動し、そのまま死に至った。徹底して生きるには信仰が必要。彼には確かな信仰があったのだろう」と語っている(p73、183)。翌年、宗教団体法が制定され、多くのキリスト教徒は恭順を示して、1941年、宗派を集めて日本基督教団を発足させる。翌新年には、伊勢神宮に参拝して教団設立を報告したのである。ドイツ教会闘争史に詳しい雨宮栄一は、日本のキリスト教徒は「だらしなかった」と恥の歴史を慨嘆している(p88)。戦後になって教団は、戦争責任についての告白を議長声明として出しているが、遅きに失するばかりでなく、それを具体的に行動指針として提示していないものとなっており、その後も社会派牧師や学生を排斥したのである。反戦主義者の告白によって、敏事の結末(後半生)は破滅だったが(p149)、累が及ばないように配慮しながら、一人「みじめに」殉教したと言えるのではないか。今や侵略戦争の加害責任が意識化され、問われている時代になっているのだが、同時に、侵略戦争に反対して行動した人々の名誉復権も執拗になされて、それが日本人の歴史認識に据えられなければならないのである。

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2018年1月23日 (火)

今、緊要なこと

33587240 図書館で検索し、見つけた新書である。金欠症のために滅多に書店では購入しない。ただ、必要とあらば財布の底をはたくが、何分(なにぶん)書棚がないので目一杯の本の処分に苦慮し、挙句の果てに廃棄しまうことになるためである。従前、高村の書物は愛読者ではないが、いつかは大部な小説を読み切ってみたいと思い合わせていたところである。いつものように、安直にも、時評集からと考えたのである。それは、2014年から2016年までの時代時評に講演録を二つ加えた覚書である。どちらかというと、講演録の方(就中、「信州岩波講座」、p156~)が高村の思慮を理解する上で手っ取り早いのではないか。作家的な観察力が利いていると思われるからである。
 即ち、東北大震災、その前兆である阪神大震災など、言葉を失う体験から一人一人が未来へと言葉を紡ぎ、言葉にすることで未来への意思を持つことである。やはり物書きに多い、言葉の力のへの確信である。キーワードは、人権意識と歴史認識の徹底であり、平和への希求であり、日本文化遺産の再生である。七十有余年に渡る戦後の歴史を改悪するために、ネトウヨ首相はもぬけの殻になってしまった日本国憲法の産廃処理を政治日程に仕掛けているのだが、これは確信犯がなす業である。30年来の右傾化に乗じて、嘘と出鱈目な言葉が氾濫し、低劣な言葉が飛び交っている。戦後的な繁栄は空虚となり、諸処の極右政党がこの政権への「消極的な承認」(p73)を利用して国会議員の三分の二勢力を獲得してしまっているのである。しかしながら、極右首相が国民の生命と財産を保証する訳ではない(高村薫は「仮想」と呼んでいる。p45)。このことは既に福島の原発事故で実証されているのである。繁栄する日本経済というものも幻想になってしまっている。産業もない、科学技術もない、まともな政治家もいない、子供も少ないという荒涼とした現実を目前にして、極右政権が跋扈する余裕などない地点にいるのである。憲法改悪と原発推進の反動政権には、破滅しか待っていないのである。戦前の歴史をしっかり認識すること、これが今、緊要なのである。
 しかしながら、結尾の「当面私たちに残されている道は、すぐ後ろに迫ってきている大波に呑み込まれないよう、黙って逃げることだけである」(p214)という言葉は、この時評集を棄損してしまっているのではないか。今日は、白根山の爆発と地震が懸念されたのである。天変地異はそんな日本人を待っていないかのようである。

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2018年1月20日 (土)

帝国化への道

33524450 タイトルの一部からして「帝国日本」である。現時の世界的グローバル経済の進展に伴って、帝国主義(Imperialism)概念では捉えられない事象が顕在化して、帝国論(Empire)が大流行である。いわゆる超帝国主義論である。特に、ネグリ&ハートの『〈帝国〉』(2000年)がその論を急加速したのである。日本の学者が欧米の学者に飛びつくのは近代化に成功した明治以来の事柄である。その昔、親炙した助教授から、東大の教授が丸善の洋書を独占買いして、訳書や著書を上梓している実態を聞き及んだことがあるが、それは今も変わらない。帝国論も例外ではない。そして、レーニンが提起した、左翼の垢にまみれた「帝国主義」という用語を使用することは、ためらう時代になっているのである(これ参照)。(ポスト)構造主義も帝国論も、パリ五月革命の挫折から派生したものと思われるが、世界の仕組みの解明を標榜しながら内面化を促進し、革命対象を巨大化して革命そのものを彼岸化しているとも思われるのである。
 さて、第三巻では、帝国化の起点とした日清戦争から日露戦争を経て明治時代の終期を叙述している。台湾征服戦争から始まって藩閥と政党とが連携し、自由民権運動は取り込まれてゆくのである。軍事大国化の推進に伴う苦境の財政を補完する地方の名望家の役割と地域社会の変容を記述するのが、この巻の特色である。黒岩六郎の『二十一世紀へ生きる』では、地方名望家の分岐が詳述されているが、帝国主義の特徴である金融資本の確立期でもあって、地方に蓄積された資本が国家によって収奪・統制される過程でもある。その有り様が記述されている。この巻の中で目を引いたのは、1903年の七博士意見書以前に、1900年9月、東京帝国大学の六教授が満州からのロシアの追放を山県首相に意見したことである(p65、逆に、七博士建白事件について言及されていないのが不思議である)。東京大学とその国史学科は、戦争責任を未だ回避しているのである(京都学派も例外ではない。これ参照)。もう一つ気になったのは、「日清戦争につづいて日露戦争も解散総選挙の下で始まったのである」(p108)という記述だった。戦争は、どんな形であれ、内なる統治として既に始まっているのである。

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2018年1月15日 (月)

罪深い男たち

33682266 第一巻では、明治維新は、幕府側を徹底的にせん滅することによって実現したことが明らかになったのであるが、それは民衆によって準備されたのではなく、ごく一部の公家と下級武士の奸計(悪だくみによる騙し討ち)による所業だったのである。前近代的な国家秩序=華夷秩序からの脱却を目指し、国土の確定(琉球処分)や徴兵制や地租改正などが急がれたのである。それは同時に、天皇親政を掲げて人民を臣民として包摂してゆく過程であった。国民国家化への契機となったのである。
 第二巻では、主権国家としての確立過程の叙述である。明治六年の征韓派と内治派の対立は、政府内の権力闘争である。いずれにしても、明治政府は不平武士の残党を死に追い込み(西南戦争)、自由民権運動との戦いに勝利する中で大日本帝国憲法の発布となる。これによって、「民衆は天皇の名によって帝国憲法を『押し付けられた』のである」(p192)。明治憲法では、天皇の統帥権が明記され、教育の法令は天皇の大権として行政府の支配下に置かれ、議会(国民)はこれから排除されたのである(p206)。
Db4sjm1uiaatdmz 対外的には、第一回帝国議会(1890年)の施政演説をした内閣総理大臣・山県有朋は、主権線・利益線論を展開し、日清戦争へと直進するのである。こうした対外的な主権国家化は同時に、対内的には、民衆の臣民化・国民化が強力に推進されたのである。そうした扇動は、「臥薪嘗胆」や「暴支膺懲」という言葉に結実してゆくのである。忠君愛国思想は、天皇を頂点とした差別思想を伴ったアジア観を決定づけたのである(p262)。換言すれば、日清戦争の勝利(日本帝国主義の確立への転機)は、1945年の敗戦を準備し、その淵源は明治維新だったと言っても過言ではないのである。山県という人物は、まこともって、罪深い男である。

 正月だというのに、毎日毎日忙殺されて(生活に追われて)、悩みも多く、心身ともに疲弊している。今年一年、平穏に生活できることを願って記帳とパソコンに向かう夜々である(泣)。

 

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2018年1月 3日 (水)

祝、青学大箱根駅伝優勝

32531738 青山学院大学、箱根駅伝総合優勝、おめでとう。
 これで4連覇で、さすがの強さを発揮しました。実は、自身が中学では陸上部に所属していて、毎日練習に明け暮れていた時期があり、元々関心も強く、今日も高校サッカー選手権と掛け持ちして注目する一日だったのである。陸上部では、過剰な練習のために心臓が懸念されて止めることになったが、達成感の満足は忘れられない。農耕民族に成り切ったとはいえ、狩猟民族としての感覚は覚えているのである(笑)。サッカーは息子がやっているので、応援している内にその魅力にとり憑かれたのである。息子は残念ながら県大会で二回戦惜敗したのであるが、息子の親友が上田西高校で活躍していて、今日の三回戦では、帝京大可児高校のパスサッカーによる攻撃的プレーに、全員防御・全員攻撃の走るサッカーで勝ち抜いたのである。準々決勝もさらに注視してゆきたい。他方の箱根駅伝では、東洋大学を応援しているのであるが、その理由はいろいろある。一つは東洋大学の学風が気に入っていることである。また、郷土力士である御嶽海の出身大学であって、どちらかと言えば、学生気質が地味であり、地方出身者が多いのではないか。恩師の一人であった先生は、東洋大学へ移動して行き、自分もまた、モグリで東洋大学の原典購読のゼミに参加したものだった。たった三人のゼミで、教授は温厚な茂手木元蔵先生だった。自由な気風が遍満して、落ち着いたキャンパスだったと覚えている。そういう懐かしさもあって永年東洋大学を応援しているのである(唯一の欠点は、東大による植民地化が浸透していることである)。大学というものは世間的評価は全く信用ならない。今や、東京大学や慶応大学は現時の国家的な人材として優遇されて派閥(Sitz)を形成しているが、研究者の間では、学問的レベルにおいては二流であることが常態化されて凋落している。そのことは40年以上もの前に漏れ聞いたこともあり、東大大学院を蹴って東北大学へと進学した物理学徒と親しくしたこともある。「東大教授」は、今では疑惑の目を向けられており、新聞やテレビでコメントを要請されることも僅少になっている(体制側の御用学者化)。これはとてもいい傾向である。都市部の著名な進学校秀才はどんどん入学して腐敗するのがよろしい。

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2018年1月 1日 (月)

2018年 謹賀新年

33518893 第一巻の基調である、「万国公法」と称される国際法の秩序を受容し、相応の国制改革を目指した維新政府の狙いを継承して、第二巻は記述される。第一巻の著者の、歴史研究者としての自らの国民化という無自覚さを前回のブログ投稿で指摘したのであるが、第二巻の著者は、1990年代後半より議論されている、いわゆる「国民国家論」(西川長夫)を対抗的に意識している(これについては「あとがき」参照)。「主権国家」の対立概念は「国民主権」であると考えると一見分かりやすいのだが、それでは「国民」とは何なのか、という疑問が沸き起こる。ここにおいて出番となったのが、国民国家論、即ち国家イデオロギー装置論である。要するに、「私自身がそのなかに囚われている国民国家を全体として対象化するための方法」なのであるが、戦後歴史学への批判となったのである(つづく)。
2018 と下書きをしたためている内に、新年になってしまった次第である。年末の「紅白」やら喧噪で意味もない(と自分には思われる)番組は避けて、デスク周りの掃除やら、挨拶やら、読書に勤しんで過ごす。毎年恒例の過ごし方である。昨年は多少の野菜作りを敢行したのだが、今年は本格的な農業開始のための下準備を開始しようと決意している(が、どうなるやら)。拙い過疎ブログですが、本年もまたよろしくお願い致します。

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2017年12月31日 (日)

歪んだ明治維新観

2017122913140000 静かな年末である。目覚めてから朝食をとり、シリーズ「日本近代の歴史」(吉川弘文館)を読み耽る。漸く、第二巻目である。遅読のために、論点が見えにくくなる傾向があるが、それはいよいよ痴呆になりつつある自分の所為である。
 第一巻は、「王政復古」後の国政改革を記述する内容であるが、惜しむらくは、維新に至る経緯については断念されている。「あとがき」にもあるように、著者の専門分野に絞られたのは致し方ない。
 33496056王政復古の大号令は、天皇の権威を利用した、公家や薩長等の武力討幕派による「クーデター」(内乱的な権力闘争)であるが、この事実はあまり周知されていない。立憲政体となっていない明治維新は、実際のところ反動政権だったのである。しかしながら、だからといって、革命を否定するものではないが、教科書的な理解や歴史家の中にも、その事実を根底的に認識している者が少ないのである。だから、現代においても、明治維新をよきものとして理解しているばかりでなく、高く評価しているのである。第一巻の著者も例外ではないと思われる。反抗する者へのジェノサイド(鳥羽伏見の戦い~函館戦争、西南戦争)は徹底していたのである。そもそも王政復古の御前会議すら騙し討ちだったのである。長年による幕藩体制にあって、幕府側は安穏としていたのである。以上のような認識なくして明治維新の本質を正確に捉えることはできないであろう。第一巻の中で、特に目を引いたのは、「地租改正は、旧幕府系の開明官僚が構想し、立法化したのである」(p227)という一文であった。更に、「わが国」「わが国制」「聡明なわが国民」「慧眼の主・・・岩倉具視」などの表現は、歴史研究者として不用意であることを指摘しておかなければならない。これは前述のような明治維新観に基づくと思われるのである。それはまた、「維新」という言葉をも歪めることになっているのである(アベの幇間となって、憲法改悪をたくらむ「維新の党」などと名称する連中についても言わずもがなである)。

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2017年12月14日 (木)

『窓を開けなくなった日本人』

32169906 いつの間にか縁側や軒先はなくなり、欄間や障子の和室は一間(ひとま)に限定されて、生活の中心ではなくなっている。この70年の住居様式は、途轍もなく変遷しているのである。その一考察に資するために、この書物を紐解いたのである。屋根は藁屋根から瓦へ、更にスレート葺や鋼板葺きとなっている。平屋から二階を増設し、アルミサッシ枠が導入されて外部と断絶することとなっている。高度経済成長期に登場したサッシ窓は、断熱効率が高く、「この六十年は、日本の住宅が『隙間風の時代』から『強制換気の時代』へと突き進んだ時代であった」(p55)のである。昔の住宅への不満から全体暖房となり、空調システムの進化によって日本人は窓を開けなくなった、というのである。モノの急増は二階・屋根裏への要求となり、車社会の進展は駐車場増設となり、最も重視されたのは屋内環境の充実と快適であり、一歩外に出ると余所行き仕様となって、家の壁は文字通り人間生活の壁となっているのである。だから、子供たちの声も聞こえず、近隣に人影がなくなってしまっているのである。著者はまた、「これまでの六十年の住宅変化を突き詰めてゆくと、最後には『ホテル』のような空間になってしまうという危惧が私には少なからずある」(p126)と批判的である(どおりで、例のアベ友である強姦魔が、ペジー社の社長が提供するホテル住まいをしていることに合点がいった次第である)。鉄筋新築校舎の高校に入学した時、ダスト・シュートが設置されていたが、すぐに使用されなくなった過去の思い出がある。その高校には、建築学科も併設されていたのは皮肉というべきである。建築家は少なくとも100年以上先をも見通して設計すべきと思うのであるが、購入者にとって家そのものは一生の買い物であるから、その考えは至当と思われるのである。この頃では家屋の寿命は60年(実際には30年余りで取り壊されている)と流布されている。新聞には建築関係のチラシがよく折り込まれているのであるが、実際には、建築業界も玉石混淆という訳である。ゆめゆめ警戒しなければならない。尤も、転居約17回の「引っ越し貧乏」のために、持ち家には程届かない自分とっては、無関係なことなのではあるが・・・(笑)。

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